第90話 さくら、咲く
書店の仕事に復帰してから間もなく、村松助教授から連絡をもらった。運良く、大学近くの大きな図書館の司書に空きができたらしい。わたしは司書の資格を取っていたので、面接の申し込みを助教授にお願いした。
「君には、君にしかできない仕事があると思うんだよ。すきなことを仕事にしなさい」
有難かった。
電話口で返事をしながらとめどなく涙がこぼれた。
「よかったね。うちとしては凪ちゃんにやめられると困っちゃうけどね」
「そんなことないですよ、ただのアルバイトだし、みんなの足を引っ張っちゃって……」
モッツァレラとトマトのスパゲッティを食べながら、そう答えた。
「凪ちゃん、自己評価を下げちゃいけないよ。オレは一応これでも責任者だから、よく知ってる。凪ちゃんが2年近くがんばってくれて、お店としてはすごく助かったんだよ」
「……ありがとうございます」
櫻井さんはにっこり笑った。
「新しい職場が嫌なところだったら帰っておいで。それからね、柿崎くんが嫌になったら、オレはいつでもOKだからね。……凪ちゃんがいなくなったらランチ食べる人、探さないとなぁ」
櫻井さんはやっぱり憎めない人だった。
助教授の推薦という後ろ盾もあって、とんとんと就職が決まった。地域でいちばん大きな図書館なので、その蔵書数にわくわくする一方、仕事を覚えるのも大変だろうな、と思う。
図書館は大学に「ほど近」で、大学との中間くらいのところに新しくアパートを借りた。透は口には出さなかったけれどすごく喜んでくれたようで、まるでふたりで暮らすように食器やその他の小物を楽しく選んだ。
これで彼も「上がり込むやましさ」から解放されるだろう。
お母さんも、「凪も26になるしね、ひとり立ちは当然のことでしょう」と寂しそうに言った。
2週間もすると彼の持ち物がだんだん移住してきて、広く感じた部屋がふたり入ってちょうど良くなった。
「あー、今日の実習、長かった!」
「遅くなったもんね」
仰向けに転がっていた彼が、腹ばいになる。
「夕飯、何にする?」
「……もうできてる」
「いい匂いだなって期待してた」
キッチンにおたまを持って立つわたしの後ろから、透が鍋をのぞき込む。
「すごい、凪! 肉じゃが!」
「そんな大袈裟な……」
わたしは図書館からずいぶんな量の料理本を借りてきていた。やってみると料理は、手順通りに行う実験のようなもので、レシピも組立の説明文書のようなものだとわかった。
「味見、してみる……?」
「あーん」
「熱いかも……」
ほくほくに程よく煮崩れたじゃがいもを、彼の口に入れる。もぐもぐしながら、そんなに味あわなくても、というくらい彼はゆっくり味見した。
「うん、美味しい! 凪はすごいなぁ。上達が早い。ボクもがんばらないと」
「そんなに褒められても何も出ないからね」
「何もいらないよ、『凪』があればボクは何もいらない……」
このまま時間が止まっても構わないな、と思う。ゆっくり、じっくり、彼をすきな時間を味わいたい。幸い彼はずいぶん年下で、わたしたちにはまだまだ時間がある。急ぐことはない。
「もうすぐ凪も誕生日だね」
「言われたくないなぁ」
「そうかな? 年齢は26になるかもしれないけど、中身はボクとあんまり変わらないでしょう?
いい勝負だと思うけど 」
「意地悪」
わたしの頭を自分の胸に抱き寄せて、透はゆっくりコンロの火を止める。
「火が点いたままじゃ危ないからね」
「お味噌汁がまだ……」
「ボクが作ってもいいでしょう?」
唇を味わい合って、お互いを確かめる。息を継いで、目と目が合う。
「浮気はダメだよ」
「お互い様だよ」
「不確かなことは言わない主義だけど、早く3年、経たないかなと思ってる」
桜の蕾がゆっくり、硬い殻を破って綻びそうだ。年をひとつ取って、桜が咲いて、透は進級して、わたしは仕事を覚えていく。
やる事がいっぱい。
3年なんてあっという間に過ぎていく、そんな気がした。
(了)
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