第89話 しあわせになって

 退院の日が来た。

 依然、わたしの包帯はいくらか巻かれたままだったけれど家に帰ることになった。タクシーに乗る。

「痛くない?」

「痛み止め、効いてるから」

 後部座席に透と一緒に座る。透が気をつかってくれる。世間は、すっかり秋を冬に染めてしまっていた。枯れ始めていた木々の葉は、落ちて、風に吹かれていた。


「凪、あんたはもう大人だから何も言わずにいようと思ってたんだけど」

「はい」

 叱られない訳にはいかない、と思った。

「恋愛は自由にしたらいいと思うし、口出しする気もないのよ。でもね、……そんなことで死んでいいわけないでしょう? あんたを探してくれた柿崎くんに感謝しなさい」

「お母さん、ボクはもういいから……」

「良くないわ。柿崎くん、本当なら凪はあなたに会わせる顔がないんだけど……、ふつつかな娘だけれどこれからも柿崎くんが飽きるまでよろしくお願いします」

 お母さんはハンカチを取り出して泣いているようだった。透はわたしの手を握っていた。


「お母さん、ボクがもし、卒業までに凪に飽きることがなかったら、ボクに凪をくれますか? 年はうんと下だし、頼りないけれど」

 驚いて彼の顔を見る。無責任な言葉は使いたくないって、いつも言っていたから……。

「こんな娘よ?」

「……改めて、今回のことで凪に代わる人はいないって痛感しました。もちろんボクはお母さんのことも大切にするし」

 今度はお母さんは声に出して笑った。泣きながら、笑っていた。

「本当に面白いわよね、柿崎くんは。そのうち、ご両親にもご挨拶しなくちゃね」

「そのときには愛想よくお願いします」

 タクシーの中からは陰鬱な空気が消え、やわらかくやさしい空気がみんなを包んでいた。わたしは、透の肩に自分の頭を載せた。その頭に透が自分の頭をこつんと傾けた。




 透の誕生日のケーキはお母さんに教わって、なんとか作り上げた。その18センチのホールのスポンジケーキは舌触りがざらざらで、ホイップもすっかりダレてしまっていたけれど、透は喜んで食べてくれた。

 19才。世の中から見たらきっとまだまだ子供だけれど……6つも7つも年上のわたしを支えて、導いてくれるのは彼しかいない。だから、彼の誕生日を祝福しないわけにはいかない。


「生まれてきてくれてありがとう」

「どういたしまして。でも、もしも願いが叶うなら、次は凪より年上に生まれたいな」

「そのことはもう……」

 わたしは居心地の悪い話題に下を向く。

「そう、それはもう今生こんじょうでは済んだことだよね。でもさ、年上だったら、凪を捕まえるのにこんなに苦労しないで済むと思うんだけど?」


 彼のセーターにそっと頭を寄せる。ウールの細い毛から、彼の体温が伝わってくる。

「プレゼント、ありがとう。まさか凪にこんな特技があると思わなかったよ」

 透は朗らかに笑って、わたしを怒らせた。

「なかなか足が治らなくて買い物に行けなかったし、ケーキもプレゼントも手作りでごめんなさい」

「どうして『ごめんなさい』なの? 世界で唯一のプレゼントなのに。料理はまだまだお母さんに教わってほしいところだけど、セーター編める人はなかなかいないと思う」

「じゃあ……ご褒美はある?」

「何が欲しいの?」

「……キスして」


 いまでもまだ彼のキスはぎこちなくて、わたしの中に恐る恐る入ってくる。それからわたしを絡め取ろうと追いかけてきて、わたしはいつも立ち止まって彼にわざと捕まってしまう。彼の中はいつもやさしくて温かい。

「これじゃ、凪のご褒美にならないな」

「どうして?」

「ボクばかりがいい思いしてる」

「じゃあ……嫌じゃなかったら抱いてくれる?」

 彼は目を見開いて驚いた。わたしの骨折がなかなか治らなくて、あれ以来彼がわたしを抱いたことはなかった。


「どこか痛くなったりするかもよ?」

「うん」

「……やさしくするけど、後悔しない?」

「なんの後悔?」

「……。これが最後の質問。ボクに決めちゃっていいの? 成海に抱かれたあとをボクが消しちゃっていいの?」

 彼の背中に腕を回す。少し大きめになってしまったセーターの背中を掴む。

「透がいいの。もし迷惑じゃなかったら……」

 やさしくする、と言ったのに、そのまま床に押し倒される。頭の中が真っ白になるくらい熱いキスをして、彼はセーターを脱いだ。

「痛かったら言ってね」




 ケガが治って大学にまた行くようになっても、成海の姿を見かけることはなくなった。成海のいた空間だけ、ぽっかりと穴が開いたようで、こんなことになっても「寂しい」と思わずにいられない。

 成海は起こしたことの責任を取って、退学していた。わたしの部屋によく似たアパートも引き払って。何も言わずにいなくなった。

 前のときとは違い、今度は成海が責任を取らされた。大人になってしてしまったことへの対価。

 わたしは離れてしまっても成海のことを忘れなかった。透には決して言わないけれど、きっとずっと彼を愛するだろう。でも、次に会った時はもう彼がどんなに呼んでも、わたしは駆け出したりはしない。手を離してはいけない人を、わたしはきちんと学んだから。

 だから、また会えたらうれしいけれど、ついて行くことはできないの。ごめんね。しあわせになって。


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