第83話 忘れられなかった

「お疲れ様です」

 その日も仕事を終えて書店を出ると、成海がスマホ片手に待っていた。何かのアプリを暇つぶしにやっていたらしい。

「お疲れ」

「今日の講義は?」

「終わった」

「今日は実習あったんじゃないの?」

「ん……」


 昨日の今日で何を考えているのかよくわからない。でも、わからないのが当たり前なのかもしれない。透のことだって、わからないでいるんだから。

「昨日の埋め合わせに下でコーヒー、飲まない?

奢るから 」

 それくらいなら、と思って警戒しつつもカフェに向かう。「先に座ってて」と言われて、奥のソファ席に座る。透とよく座る席だった。

「カフェモカでよかった?」

「うん」

「昨日と同じのがいいのか、違うのがいいのか迷っちゃって」


 少年のように照れた顔で笑う彼は、微笑ましい。昨日の落ち込んだ彼の姿を思い出す。あれから彼も家に帰って、気持ちが落ち着いたのかもしれない。

「昨日は……、わたしが成海をがっかりさせたんじゃなくて?」

「違うよ。僕が昨日はガツガツしてた。余裕がないのって、見てて見苦しいよね」

 苦笑いする。ガツガツ、か。わたしはそんな価値ある女じゃない。


「凪さ、Suica持ってる?」

「カバンの中にあるけど」

「じゃあ、行こう?」

「どこに? 待ってよ」

 ガツガツしたら見苦しい、と言った彼は、わたしの手を引いて駅の改札に向かった。本数の少ないはずの列車がたまたま上りホームに入ってくるところで、駅で揉める間もなく、電車に乗り込む。


「僕のこと、怖いの?」

「……何をするのかわからないところが」

「つき合ってるときには何もかもお互いわかりあってたのに、難しいね」

 そう言うと、電車の扉部分に寄りかかった彼はわたしの腰をぐいっと引き寄せて、離さなかった。あまり混んでいるとは言えない電車の中で、人の目が気になった。




 電車が着いたのは大学のある駅だった。


 雨が降り始めた。人々は足早に帰路につく。成海が自分の着ていたパーカーを、わたしの頭に傘の代わりに被らせる。張りついた前髪を、そっと、指で避けてくれる。


 手を引かれて歩いたのはよく見知った「ポプラ通り」。鮮魚店、大きな時計のある喫茶店、小洒落た入口の狭いフレンチのお店、反対側には賑やかな高校があり、コンビニを通り過ぎる。

 成海がキィと黒い門戸を開ける。

「ここ……」

「今は僕がここに住んでるんだよ」

 それは、わたしが教師時代に住んでいたアパートだった。少し古いそのアパートの成海の部屋には、律儀に「西尾」と表札がかかっていて、彼の育ちの良さを感じさせた。

「さすがに同じ部屋じゃないんだけどね」

 と言いつつ、鍵を開けて中を見せてくれる……。


 もちろん部屋の中はわたしの部屋ではなかった。色合いが違う。私の部屋がアイボリーやナチュラル系の部屋だったのに対し、成海の部屋は寒色系だった。ただ、家具の配置はほとんど同じで、あの頃のことを思い出さずにはいられなかった。

「凪、靴脱いで上がって。タオル出すから」

「あ、うん」

 外を降る雨は次第に雨脚が強まって、ベランダを叩くように打ちつける。貸してもらったタオルで髪を丁寧に拭く。肩下まで伸ばしてしまったので、乾くのに少しかかりそうだ。


「……凪が忘れても、僕は忘れなかったんだよ」

「忘れてないよ」

「本当に? 何もかも?」

「辛かったことも、しあわせだと思ったことも、全部覚えてる」

 成海はわたしを背中から抱きしめた。

「ゼロからでいいから、全部やり直さない? 前と同じところからじゃなくていいよ。今、知り合ったところからでいい。続きをしてくれとは望まないから」


 彼の囁きで耳元に息がかかる。段々、あの頃の気持ちがわたしによみがえってくる。「先生、後悔させない」と言った彼はわたしに人生で最大の後悔をさせた。でも……それは遊びではなくて彼を本気で愛していたからだ。

「成海、苦しい……」

「ほんとに? じゃあ、もっと苦しくなって」

 この間、空き教室でしたキスよりも濃厚なキスに飲まれてしまう。そう、これが彼とわたしがしてきたキス……さっき飲んだカフェモカのようにチョコレートのように甘くて、やっぱりほろ苦い。滑らかに喉を通っていく。

息継ぎをして、キスに溺れる。互いのペースが、呼吸のリズムが合うようになって転げるように倒れると、そこにはよく見知った天井があった。成海があの時眺めていたのとよく似たランプだけをつけて、明かりを消す。


「凪……」

 わたしを思いやってそっと彼はまたがってきた。上から唇が下りてくるのを予想して、少し口を開いて目を閉じた。彼の両手はわたしの耳の横に置かれていて、彼が下がってくるとベッドが軽く軋んだ。すべてはわたしがよく知った、彼の動作だった。

 わたしは頭の隅で自分をバカだと罵る。あの頃、大っぴらに生徒の成海とつき合っていたように、今度は透がいるのにこんなことをしている。成海のキスはたっぷり甘くて、やさしい。本当なら成海と一緒にいつまでもいるはずだった。でもそれは結果論で、現実でのベクトル上ではわたしには透がいる。透のいつまでも不器用なキスを思い出す。


「今度は誰に何を言われても、凪を守るよ。もう一度会えたんだから……」

 音を立てて外を降る雨のように、成海のキスは降り続いた。そっと、その手がわたしの体に回ろうとした。




 突然、マナーモードにしてあったスマホが振動して、暗闇の中を照らした。

 成海はわたしを捕まえようと手を伸ばしたけれど、わたしの方が一瞬早くて通話ボタンを押す。

「今どこ?」

「透……迎えに来て」

 わたしは半分泣いていて、最後まで声が届いたのかわからなかった。成海がスマホを取り上げて通話を切る。

「有り得ないよ……。同じ年で、同じ大学の同じ学部で。どうして僕はダメなわけ?」

 成海はバタッとベッドに倒れた。わたしは隣に腰を下ろして、そんな彼の慣れ親しんだ髪をそっと撫でた。




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