第82話 守ってあげたい

 透が戻るのをベンチに戻って待つ。いつものように、息をできるだけ整えて。心臓の鼓動が高鳴っているのは、たぶん走ったせいだけではない。成海の唇……むかしと変わらないキスがわたしを過去に引きずり戻そうとする。……どうして別れちゃったんだろう? 何があっても別れなければよかったのかもしれない。結局、わたしはあの関係に終わりを感じていたのだろう。


 講義を終えて、透が迎えに来てくれる。

「今日は講義、長引いてごめん」

「大丈夫、生協で本見たりしてたし」

「毎日、新刊見て仕事してるのに、凪って本当に本がすきだよね。あの、部屋にある本棚見たら、引く人多いと思うなぁ」

 冗談を言って透は笑う。そんなことを言っているけど、透はわたしの本棚からよく本を借りていく。透だって本がすきなんだ。




「凪、ストール忘れてない?」

 成海が心配そうな目でわたしのところに走ってきた。肩で息をしている。

「凪のだね」

「うん……」

 気まずくて、そっとストールを受け取る。顔が見られない。お礼を言うべきだと思う。

「あの、ありがとう」

 目を上げると成海はまるで頃の目で、切なくわたしを見た。


「柿崎」

 透が成海の顔を見る。さっき話してしまったから、透はもう成海を意識して、警戒している。

「凪がお前の講義の間、誰と何をしてたと思う?」

「ちょっと!」

「……お前の挑発に乗る気、ないから」

 成海の顔がムキになって、首を傾けてわたしの唇を奪った。それは、さっきのキスよりもずっとずっと短かったけど、透を怒らせるには十分だった。


「凪に近づくなよ! 帰ろう」

 彼はわたしの手首を掴むと黙々と駅に向かって歩いた……。駅までの道のりがいつもの3倍くらい遠く感じて、何も言わない透の心も3倍くらい遠く感じた。

 はーっ、と、駅のホームで透が息を吐く。

「情けない。殴ってやればよかった。変なところで理性が働くなんて」

 何も言えなくて、近づくこともできない。そのままでいると、彼の方からわたしの頬に軽くキスをしてきた。


「怖かった?」

「少し……」

 彼は下を向いてまた何も話さなくなった。言葉を探しているように見えた。

「キスしたの?」

 涙が出そうになる。こんな変なことで透と別れることになったらどうしよう、と思う。嘘をつけばいいのか、本当のことを話していいのか、何度も迷う。

「……空き教室で」

 透がまた大きなため息をつく。嫌われてしまうかもしれない、と思う。あのとき、少しでもむかしの自分に戻って成海のキスに酔ってしまったことに後悔する。


「あのさ」

「はい」

 透は言葉を選んで、人の多いホームの端の方を見ていた。何を言われるのか見当もつかず、黙って待つしかなかった。沈黙は果てしなく長く思えた。

「……来週からは来るのやめなよ。講義終わったらすぐに帰るから。嫉妬でおかしくなりそうなんだ。お願い」

「うん、わかったよ」

 それ以外に言う言葉はなかった。




 駅に着くとまだ時間があったけれど透は「今日は帰るね」と言って、うちまで送ってくれた。居心地が悪くて、お互い見事にぎくしゃくした。

「上がってく?」

 と聞くと、

「今日はごめん、ちょっとひとりになりたいんだ」

 と言って自転車で帰ってしまった。すーっと吸い込まれるように小さくなっていく彼の背中を、見えなくなるまで呆然と見送った。




 翌日、仕事もそろそろ終わりという時間に、気がつくと文庫本コーナーに成海が立っていた。ハッとして目を伏せる。どういうつもりなのかと考える。

「凪ちゃん、上がっていいよ」

「はい、お先に失礼します」

 裏に行ってエプロンを外して、靴を履き替える。カバンを持って店から出る。

「お疲れ様」

「……どうしてここにいるの?」

「書店って言ってたから。駅前の大きな書店に入ってみたら、凪がいた。この辺、他に書店なさそうだし……別れた時も勇気を出してこの街に来てみればよかった。会えるまで何度でも。……なんて考えてたんだよ」

「バカね……」

 教師を辞め、アパートを引き払った頃のわたしはボロボロで、病院に通う以外に家から出ることはなかった。こんなことを相談できる友人はいるわけもなく、人づきあいをしなくなっていた。

 つまり、彼がどんなにわたしを探しても、わたしは病院か実家にしかいなかった。


 ふたりでカフェに入る。窓際のカウンター席から通りの少ない車の明かりが過ぎていく。夜の闇の中に、わたしたちの姿がガラスに浮かび上がる。

 カフェモカをふたつ頼んで、言葉少なに海の中に沈んでいくように沈黙に沈む。

「今度は僕に守らせてよ」

 まだ熱いコーヒーに口をつけながら彼が言葉を落とす。


「あの頃は非力で何もできなかった。親に逆らうことも、学校から切り離されることも本当は怖くて自分にとって都合よく世の中はできていると、頭の中で思ってた。だから……凪を守れなくても仕方ないって、自分を誤魔化してたんだ」

 わたしも少しずつ冷ましながら、ようやく冷めてきたコーヒーを飲む。もう終わったことだよ、と軽々しく言えない。彼の中でそんな葛藤があったなんて思わなかった。

「終わったこと、だよ……。そんなことを引きずってないで早く……」

 わたしと彼の間にあった2人の手がぶつかって、強く握られる。


「もしもまた会えたら、今度は凪を絶対守るって決めてたんだ。せっかくそのチャンスが来たのにみすみす見逃せない。バカみたいだけど、凪も同じ気持ちでいてくれてると思ってた。まさか、別の男と……」

 彼は口を噤んだ。

「ごめん。帰るよ。最高にかっこ悪いな、僕」



 

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