第84話 まどろみの中で

 傘を持って行きなよ、と成海は言った。透は自分の傘を示した。

「悪かったよ。フェアじゃなかった、思い出につけ込んだりして」

「……帰るね」

 透は無言だった。外に出ると、雨が冷たいと感じた。そんな季節だった。透がわたしの肩を抱く。傘をさしていたのに肩が濡れるくらい、彼は急いで来たらしい。彼からは、雨の匂いがした。

 キィと門戸を開いて道に出た。




「聞くよ」

 覚悟を決める。

「西尾が凪とつき合っていたことはわかった。過去のことだし、そのことにボク自身、振り回されたくないと思ってる。凪のことを信じたい 」

 あの頃の自分に聞かせてあげたい。そんなにバカみたいに泣かなくても、あなたを大切に思ってくれる人が現れるよ、と。


「終わったことならいいんだ。凪の過去のすべてに嫉妬してたら身がもたない。けど……今日みたいなのはやめて。泣きながら『迎えに来て』なんて言われたら、何かが引き裂かれるかと思った…… 」

「どうして?」

「どうしてあの部屋がわかったかって? 教室で叫んだよ、『西尾の部屋、知ってるやついないか?』って。幸い、クラスのやつが知ってて」

「……」

 教室の真ん中で大きな声を上げる透の姿を想像することはできなかった。彼はそういうタイプではなかった。


「驚いてるの? だから、守るって言ってる、前から。なんでもするよ。無様なことでも」

 彼の傘を持つ腕にぎゅっとしがみつく。この腕にわたしは守られている……。そう、揺らぎそうな気持ちから。




「雨だから、歩いて帰ったら。送るよ」

 電灯の切れ目の暗がりで、キスをする。わたしの中までするりと入ってしまうような熱い舌を感じる。

「……あいつの匂いがする」

 唇が離れると透はそう言った。その傷ついた目を癒してあげるには、わたしはもう汚れてしまっていた。

「ごめん。あんまりヤキモチやくのはみっともないね」

 言葉を探す。どうしたら透に気持ちが伝わるのか……。どの気持ちを伝えたらいいんだろう。何を伝えたらいいんだろう。


「こんな時間に上がっていったら、お母さん、さすがに怒るかな?」

「え? 遅くなっちゃうよ」

「そうだよね、どうかしてた」

 お母さんが寝てしまった家の中、階段をそろりそろりと上っていく。タオルを持ってきて、濡れてしまった髪や肩を拭く。わたしの肩を拭いていた透が、首筋の髪をひと房避けて唇を押しつける。

「……そんなにしたら、痛いよ」

「キスマーク。せめてものヤキモチの印」

「明日から、仕事のとき、髪、結べないじゃない」

「髪を下ろしてる凪、すきだなぁ」


 気がつくと彼の腕の中にいる。この腕に包まれているなら、初秋の冷たい雨に閉じ込められても大丈夫だと思う。彼の温もりに落ち着く。

 冷えた体を温めるために、ふたりで一枚のブランケットにくるまる。

「……今日は、泊まっていこうかな?」

「できないくせに」

「一晩中、抱きしめてあげるよ?」

「ほんとに?」

「本当だよ。むしろ、一晩中、抱きしめて離したくない」


 話しているそばから彼の声に安心して眠くなってしまって、私の中身は透で満たされていることを思い出す。

「凪、寝ちゃったの?」

「まだ。……透が変なこと言うから、眠くなっちゃっただけ」

「変なことじゃないよ。そのまま寝ちゃいなよ、抱きしめてあげるから」

「ダメだよ、帰らなきゃ……」


 緊張から解かれた心はまどろみに落ちていき、体がぐったりと重力を感じる。雨音が耳にやさしい。透の心音と共に、不安なことからわたしを遠ざけてくれる。

 いつからわたしはすべてを彼に預けてしまったんだろう? 成海と同じ高校生だった彼に。

 透に声をかけられた時、確かに面倒なことになったとは思ったけれど……成海と比べて見たことはなかった。成海は成海で、透は透だった。


「眠れないの……?」

「ううん、とても眠いの」

「そうだ、また旅行に行こう。一晩中、寝かせないからさ」

「ひどい。でも、旅行はいいかも」

「何処に行くか、考えようね。雪の降る温泉とかさ。こたつがあったり。今度こそ、布団は並べて敷いてもらわないと」




「……凪」

 まだ眠い目をこする。空はまだ夜明けに近い。

「さすがに朝までいるとお母さん、驚くだろうから帰るね」

「……本当に泊まったの? 眠れた?」

「まぁ、そこそこ。ボクのことはいいんだよ。凪は眠れたでしょう?」

「寝顔、見たんだ。意地悪……」


 彼が屈んで、わたしにキスをする。やわらかい感触が唇に残る。

「今更でしょう? ……今日はバイトだから遅くまで時間、作れないんだけど、バイトの後でよければ会いたくなったら呼んで」

 もう一度、彼の頭に腕を回してキスをする。

「もっとも、ボクの方が会いたくなるかもしれないけど……」

「そのときは呼んで。たまにはわたしが会いに行くから……」

「ダメだよ。女の子が夜、出歩いたら危ない。じゃあ、本当に帰るよ。寒くなってきたから、窓から見送って」


 できるだけ音を立てないように階段を下りて、送り出す。鍵を閉めて、もう一度部屋に戻って窓から見下ろすと、透が手を振っていた。


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