第81話 攫ってしまいたい
1週間をなんとかやり過ごして、またわたしはベンチに座っていた。今日は成海もみんなと一緒にあの扉から出てくるだろう。大勢に紛れてしまえば、今まで同様、気づかないふりのふたりでいられる。そう思うことで自分を落ち着けようとしていた。
「……おはよう」
「成海? 講義、また寝坊したの?」
「 まあ、そんなとこ。あのさぁ……凪?」
「何?」
自分から声をかけておいて、成海はなかなか話をしなかった。どんな顔をしているのか、怖くて見られない。
「やっぱり、僕のことはすっかり思い出なんだよね?」
「もう1年半も前のことだし。それにわたしには透……透がいるもの」
「だよな、期待はしてなかったから気にしないで」
寂しげな呟きに思わず彼の顔をちらりと見てしまう。明らかにがっかりした、という顔だった。でも、わたしだって身を切る思いで成海を忘れたんだ。そんなに簡単なことではない。
「柿崎が、そんなにいいわけ?」
「……何が聞きたいの?」
「いや、ただどこがすきなのかなぁって気になったんだよ。ほら、僕と年も同じだし、凪より年下だってことも変わらないしさ」
今度はわたしが黙る番だった。膝の上のフリンジを手でほぐすふりをして、
「あっちから告ってきた?」
「うん」
「じゃあ凪はそれほど本気じゃないわけ?」
「……透がいなかったら、今、わたしはここにいられないから」
「……ふーん」
学生たちが賑やかにぞろぞろと教室から出てくる。その中には透の姿も見える。わたしが来てることはわかっているので、こちらを目で探している。「透!」大きくなりすぎない声で呼んで、片手をそっと上げる。透はこっちに大股で歩いてくる。
「お疲れ様。ランチ、何処にしようか? わたし、学食でもいいよ」
「……また西尾と一緒だったの?」
「たまたまだよ、ねえ?」
「……たまたまなわけないじゃん。相変わらず、凪は鈍いよな」
成海はさっさと友だちのところに行ってしまった。
すっかり緑色を失ってくしゃくしゃになった欅並木を、透と手をつないで学食へ向かう。今日は何にしようかな、とぼんやり考える。
「凪?」
「どうしたの?」
「西尾、なんだけどさ、ただの教え子だった? 本当に」
「ああ……」
透が疑問を持つのも当たり前だ。成海がわたしに会いに来るなんて、理由もなければおかしなことだ。やっぱり、話してしまうべきかもしれない。
「西尾くんは……成海は、わたしの恋人だったよ。教師だったとき。軽蔑したよね……」
「いや……そういうこともあるかなって、ずっと頭の中をぐるぐるしてたから。聞いちゃったらやっぱりそれはそれでショックだけどね」
どちらも何も言わない。言えないのかもしれない。物事は簡単ではなくて、ぐるぐるともつれて絡み合っている。
「まぁ、ボクも高校生のときに凪に告白したわけだから、『高校生のくせに』とは言えないけどね」
横顔が寂しそうで、わたしは彼の手をぎゅっと握った。
3コマが終われば、透の今日の講義は終わり。ご飯のあと透と別れて、生協で本を物色する。生協で買うと2割引なので、つい本気で見てしまう。
後ろから誰かがくすくす笑う。
「本1冊買うのにすごい迷うよな」
「見てたの?」
「うん、ずっとね」
短い沈黙がふたりに訪れる。
「講義サボったり、今みたいに見てたり、どういうつりもり?」
「凪を、攫うつもり」
「……攫えないよ」
「どうして?」
手にしていた本を、そっと平積みに戻す。
「あの時できなかったことが、今ならできるとか、ないと思うから」
「痛いこと言うなぁ。じゃあ、柿崎が講義の間、せっかくだから攫っちゃおう」
え、ちょっと、というわたしの言葉を無視して、成海は手を引いてどんどん歩いてしまう。最後に成海と手をつないで歩いたのは、何時だろう。あのときは本当にバカで、ふたりで手をつないで買い物をしたり、街を歩いたり、バレなかった方がおかしかった。
工学部の、2階に行く。階段をかつかつと上って、着いたのは小さな空き教室だった。
「成海……ここ、どこ?」
成海は中に入ると内鍵を閉めて、暗幕を広げた。窓は少し開いていたので風がカーテンをあの日のようにはためかせていた。
「ほら、すっかり誰からも見られない。あの日のキス、忘れてないでしょう?」
軽く手を引かれてふらっと成海の腕の中に入ってしまう。こんなこといいわけないのに、と思いつつ、抱きしめられてもがいても離してもらえない。成海の、懐かしい匂いがする……。安心してしまう。
「つき合ってる子とか、いないの? 成海ならもてるでしょう?」
「いない。心の中に時間が止まったままの『凪』がいるから」
何も言えない……。教室は暗幕のせいで真っ暗で、お互いの表情も見えない。わたしを抱きしめていた成海の手がふと離れ、頬に触れた。彼の目が、微かに見える。
「何度も夢に見たから」
ああ、これは本当にダメなことなのに……そう思っても、口に出せないし、成海を突き飛ばすこともできない。確かにあのとき、別れたけれど、わたしだって嫌いになって別れたわけじゃなかった……。
そっと、唇が触れて、二度、三度、止まらなくなる。求めあってあの頃を思い出して、彼を受け入れる。長いこと、そうしていた……。
風が、不意に強く吹いて暗幕がめくれ上がる。記憶がフラッシュバックする。気がそれてちらと見ると、コの字型の校舎の向かい側の教室に透を見た気がした。彼もまた不意の風に気を取られて外に目をやった。
わたしたちの目は合わなかった。
でも、わたしは成海の胸を押し返した。
「こういうの、やめよう?」
「どうして? むかしみたいだった。凪もそう思ったでしょう?」
「ごめん、わたし、無理」
内鍵を開けて、廊下を走った。
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