第80話 全部お終い

 帰りの電車で透は何も聞かなかった。前の学校の話はわたしにとっては禁句だということを彼はよくわかっていたし、忍耐強いやさしさでわたしを守ろうとしてくれていた。

 ふたり、電車の中でも手をつないでわたしは透にもたれかかっていた。透の体温が今はいちばん心に染みる。


「西尾……嫌ならそう言って。ボクも他の男のことは気になっちゃうんだ、ごめん。くどいよね」

「大丈夫だよ」

「西尾はただの元生徒なの?」

「うん。……わたしは国語の担任だったの」

「そっか……。それじゃお互いに驚いて動揺もするよね」

 お互いに? 透の目にはそう映っていたのか……。それなら、成海もわたしに会って、少しは動揺してくれたんだ。

 何故かそのことに安心を覚えてしまう。成海はわたしを忘れていたわけじゃないんだ。忘れられたくない……。


「凪さ、今日、遅くなっても……」

 わたしは透の手をぎゅっと握った。

「いろいろあったからわたしも心細い。……抱いてくれる?」

「今すぐぎゅっと抱きしめたいよ」

 ぽそっと彼は恥ずかしそうに下を向いて照れてそう言った。




 教師1年生のわたしは、1年生の担任になった。大きめの制服に身を包んだ、さっきまで中学生だった生徒たちを大切にしようと心に誓ったことを覚えている。


 職場は大学に近く、大学は母親のためにもと思って実家から通ったけれど、仕事となると朝は早く、夜は遅くなるのでアパートを借りるのを許してもらった。


 ――ああ、これで「いい子」をやめられる!

 亡くなった父は教師だった。大好きな父の跡を継いで教職に就いたものの、父は生前、厳格な人であった。父がいる間はわたしは父のために「いい子」になり、母だけになると今度は母のために「いい子」になった。しかし、一人の時間を多く持てるようになれば、きっと世界は変わるはず、とわたしは思った。


 学校が実際始まってみると、ちらほらと男の子たちがやって来るようになった。女の子たちは悩み事を相談しに来た。うちは私立校だけど、若い女の先生が少ないのでわたしが珍しいらしい。「地味で大人しくていい子」の凪は、生徒の中では「明るくて穏やかでやさしい」凪になった。みんなが、

「凪ちゃーん」

と親しくしてくれた。


 中でも異彩を放っていたのが、2年生の西尾成海にしおなるみだ。

女の子のような名前だけど彼は背の高い男の子で、等身がみんなと違う。背がひょろっと高くて顔が小さい、屈託のない笑顔を見せる子だった。

 賑やかな教室の中で何故かひとり浮いていて、それでいてクラス行事があると中心にいる、そんな不思議な生徒だった。


 いろんな男子生徒から、真面目な、不真面目な、冗談でしかないような告白を受けた。その中には成海も混ざっていた。

「ねえ、僕とつき合おう。きっと後悔させない」

 ドキッとした。高校2年生なのに、大人のようなことを言う子だなと思った。

「凪って、呼び捨てで呼んでもいい? 2人の時だけでいいから」

「ダメ。そういうのまずいの」

「凪と成海って似てない? 僕は自分の名前、好きじゃなかったけど、凪と出会ってすきになったよ。凪……成海……凪……ほらね」




 高校2年生と23才の女教師の危うい恋が始まった。

 それは足元に押し寄せるさざ波のようで、何かに常に追いかけられているようにわたしたちはもつれながら恋に溺れた。いつでもお互いが足りなかった。

 成海を子供だと思ったことは一度もない。彼はわたしにない、「自由」という名の風をまとっていて、わたしの窮屈な生き方を吹き飛ばしてくれた。

 雑踏でキスをしたり、学校のない日は昼間からふたりでベッドに入ったり。彼といると何もかもが自由で、開放的で、背徳的だった。今までの「凪」には決してできなかったことを、成海は一緒に叶えてくれた。




 ある日の放課後、図書室の角のカーテンが風に大きく揺れて、わたしたちは風が止むまでカーテンの影で長くて熱いキスをした。わたしは成海に酔っていた。その長いキスの間に彼の中のすべてを満たしてあげたい気分でいっぱいだった。

 風が止むと成海は、

「早く帰って続きがしたいな」

と言った。わたしは、

「まだもう少し仕事があるの」

と言いつつ、帰ってからのことを思っていた。


 その晩も、わたしたちは年の差など飛び越えてお互いの体を絡めとるように抱き合った。ため息が漏れる。成海がわたしの口を塞ぐ。苦しくなる。愛しくて仕方がない。

 一瞬だけ、泳いでいる時のように息継ぎをする。逃げたくなるほどの苦しさと、頭から抱きしめて何処かにしまってしまいたいくらいの愛しさ。そんなものが同時に存在するなんて、知らずに生きてきた。


「愛してる?」

「愛してるよ」

「凪、どこにも行かないで」

「行かないよ? どうしたの? 怖い夢でも見た?」

 成海は少し黙って、ベッドサイドのランプを見つめていた。

「時々怖くなるんだ。凪がどこかに行っちゃう気がして」

「成海を置いて行くわけないじゃない」

 わたしは彼の寂しげな顔に微笑んだ。




 ところが、図書館でのキスを校舎の反対側の窓からたまたま見ていた女子生徒が、写真を撮って他の教師にそれを見せた。職員会議が開かれた。

「相澤くん、本当なのかな?」

 穏やかな口調でギリギリと締め付けられるように真実を絞り出される。

 周りの、仲の良かった教師もみな、知らないふりだ。中には今まで気がついて気がつかないふりをしてくれていたに違いない教師もいた。でもそんなことはすべて無意味だった。

「西尾くんはね、PTA会長の息子さんで、うちの学校にも多額の……」

 要するに、わたしは切り捨てられた。行き場がなくなった。

 3学期末で退職するように言われた。ちょうどその頃、最後の部活の引率をしていたわたしを透は見たのだ。つまりそれは、「人生で最悪の時期」だった。


「凪! 考え直して。両親は説得するから!」

「無理だよ、成海。全部お終い。ねぇ、教師と生徒の恋愛を許す親なんていないよ」

「約束したじゃん、僕を置いていかないって」

「……ごめんね、こんな形でしかあなたを守れなくて。わたしが辞めればあなたの未来には傷がつかないで済むもの」

 凪、成海、凪、成海、……口の中でその名前が甘くとろける。でも、いつかはすべてが溶けてなくなる。わたしは実家に戻った。

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