第79話 それは昔の話
透の後期授業が10月から始まった。また、会えない日が多くなる。あまり講義の枠が変わらなかったので、前期と同じように工学部前のベンチで彼を待っていた。日によってはすっかり秋を感じて、薄手のストールを膝に掛けていた。
わたしたちがつき合い始めてから、1年を過ぎた。
「凪、じゃない?」
突然、声をかけられて驚く。大学時代の知り合いの誰かがまだ院に残ってるかもしれないので、注意深く顔を見る。注意深く……。一目で誰かわかった。わたしの人生の中で
「柿崎の彼女」
「……うん」
「その彼女がかわいいんだって話になってて、名前が『凪』だっていうから、ちょっと珍しいし気になってた。……柿崎の彼女じゃなかったら、今すぐ連れて逃げるのに」
「成海でも、人のこと気にするようになったんだ?」
「いい勉強をしたからだよ」
「そう……。じゃあ、逃げる準備はいらないわね」
お互いに言葉が尽きてしまう。一言でも漏らしたら、今の均衡が崩れてしまう気がしてため息ひとつ、落とすことができない。手持ち無沙汰で、居心地が悪かった。どうして今ここで成海に会ったのか、その意味がわからなかった。
「この講義、必修なんじゃないの?」
「寝坊したんだよ。誰かにノート借りないとなぁ」
冗談を言い合っている風に見えながら、わたしの神経はすっかりすり減っていくようだった。この場にいることが間違いで、わたしの居るべき場所である透は今、そばにいない。
「……元気だった?」
口火を切ったのは成海だった。
「そうね、ほどほどに」
「今は何してるの?」
「書店でアルバイト」
彼は一瞬、息が詰まったような顔をした。
「……そっか。ごめん」
「謝るのはなし。それよりどうして成海はここに? いつからそんなに成績上がったの?」
「厳しいなぁ。……あの後、どうせだったらここに入ってやろうって決めたんだ。かなりがんばったよ」
「そうなんだ」
話せば話すほど、なぜか虚しい空気がわたしたちの間を横切る。わたしと透が甘い受験勉強の時間を過ごしている間、成海は猛勉強をしたわけだ。
「柿崎は良い奴だと思うよ。ノートも貸してくれるしさ。お、講義終わった。それこそ誰かにマジでノート借りないと。じゃあまた。話せる機会が持ててうれしかった」
片手を上げてわたしを見ると、彼は友人のところに走っていった。ああいう姿は、まだあのころと変わらない少年らしさを残している。無邪気で、屈託のない笑顔。
「お待たせ、長く待たせてごめん」
「ずいぶん涼しくなったから大丈夫」
「そうだね、すっかり涼しくなったよね」
キャンパスの大通りには、気の早い落ち葉がいくらか落ちていた。ポプラ並木の葉も、鮮やかに赤く染まり始めていた。
そのとき。
わたしは自分がとても大きく動揺していることに気がついた。動揺しない方がどうかしている。成海に会って、何も思わないことなんてない。立ち上がりかけていた足元が一瞬、真っ黒になってぐにゃっと歪んだ。
「凪、貧血だって。ちゃんと食べてるの?」
こくん、とうなずく。
「3コマ……」
「
「そう……」
透はベッドサイドでわたしを心配そうに見ていた。まるでかわいそうになるくらい。彼の前髪をそっと触る。
涙が、止めようとしても止まるわけがなく、ぽろぽろと頬を伝って流れてくる。これまで心の中に堰き止めていたものが抑えようもなく溢れる。
「どうしたの?」
首を横に振る。
透がわたしの額に触れる。
「困ったな。泣きたいだけ泣かせてあげたいけど、ここにいたんじゃ難しいから」
人の目も気にせず、透の肩にわたしの頭を載せてくれる。わたしにはこの人がいるんだなぁと再確認する。
「薬、持ってきた? カバンの中、見てもいい?」
「ポケットの中にあると思う」
「凪がやっとまともに口をきいてくれてよかった。心配したよ」
透は言葉通りにやさしく微笑んだ。この人がいてくれれば、わたしは何もいらない。
体を起こしていつもの安定剤を飲む。これで少しはましになるはず。何より……広いキャンパスの中だ、今日中にまた彼に会うことはないだろう。
「ご飯、食べようか? 落ち着いてゆっくり食べた方がいいんじゃない?」
「ありがとう、そうさせてもらおうかな?」
手をつないでいつもよりゆっくり歩く。具合の悪くなったわたしを慮って、騒がしい学食は避けて、彼は学外のファミレスに行こうと言った。ピークの時間は過ぎていたし、いつも行くお店だったので、わたしも安心した。
「柿崎たち、今から?」
目の前に成海が友だちと現れた。
「ああ、ちょっと遅くなって」
「3コマあるなら急がないと遅れるよ」
今年に入ってから、ほぼ毎週、この時間は学校に来ていたのに、どうして会わなかったんだろう? どうして会うのが今なんだろう?
「柿崎は凪とつき合ってるんだよね?」
わたしの手が緊張して、透の手をぎゅっと握る。透がわたしをやや後ろに庇うような形になる。
「オレの彼女だけど? 凪に何か?」
「ああ、違う、そういう意味じゃないんだ。凪は僕が高校のときの先生だったから」
「そうなの?」という顔をして透が振り返る。わたしはうなずく。
「西尾くんは、わたしが国語の担当をしてた生徒なの」
「そういうこと。早くお昼行った方がいいんじゃない?」
成海は颯爽と立ち去った。二度と会えないわけではないのに、ここで離れてしまっていいのか、気持ちが逡巡する。振り返る。成海もこっちを見ている。わたしたちの間には、まだ見えない何かが横たわっている。
「……成海!」
彼はハッとして振り向いた。目と目が合う。そこに喜びがあったことをわたしは見逃さなかった。
「早く行かないと柿崎がかわいそうだよ。またね、凪」
信号待ちをしているとき、言いにくそうに透が切り出した。
「あのさ……答えるのが嫌ならいいんだけど、さっきベンチで西尾と話してたよね」
「ああ、うん、西尾くんの成績でよくここに受かったねって話」
「そうなんだ」
「透の高校みたいに偏差値高くないから、国立に行く子なんてほとんどいないのよ」
透は明らかにホッとした顔をした。……それを見ていると、やはりとても昔の話を透にするわけにはいかないと思った。
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