第77話 遠く、遠く

「大体、凪はつき合い始めて最初の誕生日も教えてくれなかったし。ボク、お母さんに教えてもらったんだよ? 有り得ない」

「受験生だったんだから、いいの。忙しかったし、勉強に集中して欲しかったし。……クリスマスには指輪くれたじゃない? わたしはそれで良かったから」

 わたしが左手を見せると、透はそれをじっと見た。

「それ……」

「くれたのに忘れちゃったの?」

「つけてないから」

「仕事のときはつけられないし、しまってあるの、無くさないように」


 彼が手を差し出したので、わたしは指輪を外して彼の手に載せた。指輪を間近でじっと見つめると、視線をわたしに移してわたしの左手の薬指にそっとまた嵌めてくれた。

「ボクが凪を無くさないように」

「うん。無くさないで」

「もう絶対に凪を迷わせたりしない」




「貸切露天風呂って、半露天なんだね」

「風が気持ちいいじゃない?」

「うん、でもさー」

 透はお湯に浸かりながら何か不満らしい。

「明かりがぼんやりしてて、凪がはっきり見えない」

「……見なくていいし、それにいつも見てるじゃない」

「それとこれとは別じゃない?」

「……同じだと思うな」


 すっかり雨は止んで、雲と雲の切れ間に星が見え隠れする。高原らしい清々しい空気が温泉で温まった肩に気持ちいい。遠くに来たんだな、と思う。

「今度はもっとお金貯めるからさ」

「ん?」

「露天風呂付きの部屋にしようよ」

 良くない妄想が頭をよぎって、顔がきっと赤くなっている。けど、明かりが暗いのに助けられて透には見られないで済んだ。


「冬とか。雪の降る中の露天風呂、いいと思わない? 風流だよ。第一、温泉てさ、入口で男女分かれるから、せっかく一緒に来たのに残念だよね、いろんな意味で」

 忘れていたけれど、小田くんのセリフを思い出す。同じことを言っていた。ちょっとだけ、胸が苦しくなった。

「もう出ようか?」

 貸切なので時間制になっていた。時間が気になっていたので、彼からそう言ってくれてキリがついた。




「もう浴衣になってもいいよ」

 湯上りに買ってきたミネラルウォーターを飲んでいると、後ろから声をかけられる。

「え、今更いいわよ。念の為、パジャマも持ってきたし」

 手を引っ張られて、近い方のベッドに座らされる。

「……凪の浴衣姿、他の人に見られたくなくて。浴衣ってすぐに気崩れちゃうし、なんか色っぼいでしょう?」

「ヤキモチやき……」

「いいよ、そう思われても。そんなことで凪がボクのところにいてくれるなら」


 透がわたしより長い腕でペットボトルのフタを閉めて、ベッドサイドに置く。仕方がないのでどうせすぐに脱がされるに決まってるのに、リクエスト通りに浴衣を着る。そして、わたしを湖側のベッドに寝せて、明かりを消す。

「朝、起きた時に湖が見えた方が良くない?」

 わたしはふふっと吹き出す。意外とロマンティストだな、と思う。

「確かにその方が気持ちよさそう」

 わたしの隣に身を横たえた彼がそっと覆い被さってきて、夜の闇のように何も見えない。目を開けばあの星空が見えるのかもしれないけど、今は静かに瞳を閉じて彼の吐息がかかる唇が重なるのを待つ。


 ――初めてキスをしたのはいつだったかな?


 なんだかあの頃はひどく周りのことが気になって、慎重になりすぎていた気がする。けど、焦りすぎていたらやっぱりダメだったようにも思う。ふたりの間に横たわる時間が、わたしたちの絆だ。


 抱きしめられて、キスを重ねて、そして……体を重ねて。喧嘩も誤解もあって。


 今はわたしの、着たばかりの浴衣をふたりの体で敷いたまま、わたしは彼を受け入れようとしている。どんなにわたしが年上だといっても、このときばかりはわたしの負けで、

「感じてる?」

 と聞かれれば、

「うん」

 と答えてしまう。だって彼はわたしのすべてを知っているから。どんな小さなことでも知っているから、わたしの声にならない小さなため息が、だんだん彼を求める声に変わる。

 彼はいつものようにやさしいけれど、いつもと違ってベッドの中では対等。むしろ、わたしが引っ張られて行く。


透はほんの肌一枚で繋がっているのに、遠くに、遠くに限界までわたしの意識は飛んでいく。


 息が弾んで、彼がベッドに横になったとき外を見たら、湖面が月に照らされてまるで水に溶けてしまったかのように見えた。




 翌朝はよく晴れて、湖面はきらめきを放っていた。ロマンティックなことを言っていた彼は、そんなことはすっかり忘れたかのようにはしゃいでいる。

「今日は湖の方へ行く?」

「うん、行くつもり」

「楽しみだなぁ」

 小学生のようだ。とりあえず、朝ごはんを食べに食堂へ向かう。


 朝食は完全にビュッフェスタイルで、焼きたてのパンがすきなだけ食べられるようになっていた。わたしたちはそれを楽しんで、たくさんのパンを食べるために1個を半分にシェアしながら食べた。

 そしてたらふく朝食を食べた後、コーヒーをいつものようにのんびり飲んだ。

「昨日はなんだか興奮してよく寝られなくてさ」

「嘘つき。すぐに寝ちゃったじゃない」

「凪だってさ、朝起きたら浴衣じゃなかったじゃない」

 わたしは一口、コーヒーを飲んだ。


「透はすぐに起きなかったから知らないと思うけど、わたしの浴衣は一晩、透の下敷きだったわよ」

「……ごめん、寒かった?」

「……透が抱きしめててくれたから、寒くなかったけど」

「ごめんね」

「いいの。浴衣はまた今度、堪能してね」

 透の顔にはありありと、「また次があるんだ」と書いてあった。

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