第73話 肝心なことが言えなくて

 透の夏休みが始まった。また毎日、彼が受験生の時のように会うことができるということが自分にとってどれくらい楽しみだったのか、思い知る。

 足の怪我はそこそこ良くなって、仕事もすごく重いもの以外は運べるようになった。「凪ちゃんにあまり重いものは持たせないように」というのは、もちろんいつものように櫻井さんが言い出したことだ。櫻井さんはとことんわたしに甘い。

 透は約束通り、よほどの用事がない時にはお昼と、帰りに迎えに来てくれる。毎日、とても暑い中、自転車で出かけてくるだけで熱中症にならないかと心配になるけど、それでも会いに来てくれる。大切にされていると感じる……。




「暑い、暑い、暑い!」

「透、部屋の中は涼しいんだから勘弁して……」

「だって設定温度28度でこれだよ?」

「仕方ないなぁ、少し下げるから」

 よく見ると28度でも風量が弱になっていて、これはエアコンが効かないはずだ。風量を自動にする。

「凪は冷え性?」

「少し」

「女の人に『冷え』は良くないって」

「そうね。大丈夫だよ。ほら、ブランケットもあるし」

 この夏の暑い中に、という顔をして透はブランケットを睨んだ。


「やっぱり透が来てると発熱量が違うんだよ」

「発熱量?」

「ふたりいれば、ふたり分、部屋の温度が上がる……」

 続きの言葉を言う機会は与えられなかった。

「まだ足は痛む?」

「もう大分良くなったよ」

「じゃあ少しは無理できるかな……」

 無理って何よ、と思ったけど何も言わなかった。


「発熱量をもっと上げちゃおう」

「え? 暑くなるだけだよ」

「発熱量なら凪よりボクの得意分野だからね」

 そんな話をしながらTシャツもスカートも脱がされてしまう。仕事のない日のわたしの定番はこのところ、Tシャツにスカート。暑くてデニムとか、重ね着とかとても無理だった。

「ねぇ、やっぱりと会った意味が無い気がするの?」

 最近はばかりな気がする。


「……」

 自分のTシャツを脱ごうとしていた彼が、急に固まる。

「毎日でもけど、我慢してる」

「え !? 我慢させてた?」

「いや、ボクの方で自分に我慢するように言ってる」

 透はまたTシャツを着てしまったので、裸なのはわたしだけになってしまった。着た方がいいのか、このまま待った方がいいのか、わかりかねる。


「ごめん、何か毎日のようにしてるのっておかしいよね」

「そんなことはないけど」

「ないの? ……凪の前の彼氏たちはどうだったの?」

「えー?」

 また答えにくいことを、と思う。正直に答えたところできっといつものように凹むに違いないのに。


「透の前につき合ってた人は、もう大学卒業が見えてた頃だったから、そんな暇、お互いになかったよ。何も無くて別れた感じ」

「……その前の人は?」

「そっちも言わなくちゃだめ?」

 上目遣いにご機嫌を伺うと、むすっとしてこっちを見ている。……逃げ切れそうにない。

「その前の人、大学入ってすぐつき合った人はね、……ほどほどにしたかな? 彼は一人暮らしだったし」


 言ってしまって後悔しても先に立つわけではなく、透の愚痴を聞かされることになる。

「一人暮らしって、狡いよな」

「狡くはないと思うけど……まぁ、気兼ねはないよね」

 彼は大きくため息をついた。

「気兼ねかー。実は気兼ねはしてるんだ。凪のお母さんがいないときに上がりこむのは悪いなって思ってる。でもさ、ボクが一人暮らししてもいいんだけど、大学の近くにしたら、凪と遠くなって意味がないんだよなぁ」

 彼も彼なりにいろいろ考えてるんだなぁと思う。そんな風に考えてくれてると思わなかった。


「……これはね、答えたくなければ答えなくていいんだけど……。聞きたくないけど聞きたくて。小田さんと、?」

「ああ、そのこと……。最後までしてないよ」

 本当のことだ。あの日、暑い中、車を出そうとしてくれたのもたぶん、部屋で長い時間、一緒にいるのを避けるためだったんだと思う。あのときの小田くんの背中を思うとさみしくなる。あの日、帰らないでそうなっていたら今のわたしはいなかった。


「最後まで、か。ボクも同じことを言ったよね。なんか、自分が聞くとショックで改めて凪を傷つけてごめん、て言いたい」

「その話、やめようよ。なくならないのはわかってるけど、思い出したくないの」

「ごめん……」

 何も言わずに彼を抱きしめた。だってせっかく捕まえたんだもの、逃がすわけにはいかない。彼ひとりが特別だって気がついたのに……。


彼の手が伸びて、わたしを更に引き寄せる。当たり前のように口づけをする。口づけはわたしたちの言葉で、体を重ねるのは言葉を積み重ねるのと同じことで。……「会えば抱き合いたいよね」って言いたかったけど、言えなかった。

 わたしは肝心なことを口にできずに彼に抱かれる。セミの声が耳に響く中、彼はもう一度Tシャツを脱いだ。

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