第72話 余裕がない

 透に支えてもらわないと、ちょっとした移動も難しくて恥ずかしくて泣きたくなる。冷房が冷えた頃合いを見計らって、2階に上がる。

 なんでこんな怪我なんかしちゃったのかなぁと思っても、すべては後の祭りだ。


「ねぇ、夏休みにふたりで旅行に行かない?」

「……そうだね。平日ならまだ空いてるかしら」

「ネットで見た感じでは空いてそう」

 透のスマホをふたりで眺める。値段の手頃なところも多い。

「どこに行きたいか考えておいて」

 と透ははりきっていた。

 1泊だと限られてくる……箱根とか? 伊豆? うーんと頭を悩ませる。


「凪」

 ふとそよ風が吹いたような気がして彼を見ると、キスをされてそのまま床に倒されてしまう。

「まだ早いかな?」

「何が?」

「仲直りしてから」

 わたしは彼の首に腕を絡めた。彼を引き寄せてキスをする。

「久しぶりだね」

「……ごめん」

「バカ、その話はもう終わりにして」


 彼の頭がわたしの首と肩の間に埋まり、耳元がくすぐったい。わたしが身をよじると、彼がきょとんと顔を上げた。

「ごめん、くすぐったかったの」

 彼はにやりと笑って、あちこち責めるように口づけをする。そんな、まだ子供っぽさを残した彼に仕返しをしようとする。

「いたっ」

「足?」

「体重、かけちゃったの」

「ちゃんと捕まっててね」


 その時、わたしは彼の腕の中にいた。十分に重いわたしを、彼はそっとベッドに下ろすと自分の着ていたTシャツを脱いだ。

「お母さん、帰ってきちゃう?」

「まだ、大丈夫……」

 わたしの着ていたものも器用に脱がされてしまって気がつけば素肌と素肌が触れ合う距離にいた。


 彼はわたしのひとつひとつを確認し、わたしも彼を確かめた。今までと何一つ変わっていないことに胸の中がふわっとうれしくなる。

 彼は初めての時がそうであったように、時々、不器用で乱暴になり、そうかと思うと大切なものに触れるようにそっとわたしに触れた。

「ごめん、今日、余裕ない」

「いいよ、来て……」

 彼の衝動に自分の体を任せて、自分は感覚だけになる。空の彼方に突き抜けて飛んで行ったような気がして、それは終わる。




「足、痛くなかった?」

「ベッドは固くないから。ありがとう、重かったでしょう」

「……あれは、照れ隠しだよ」

 彼の頭を胸元でぎゅっと抱きしめる。「苦しいよ」と言いながら満更でもなかったみたいだった。


 その日、わたしは彼と初めて自分のベッドでつながった。




 いつお母さんが帰ってきてもいいように服を着て、ベッドの上でさっきまでの彼の肌の温もりを確かめるように胸に頬を寄せる。ため息が出る。それは、しあわせのため息。何かが私の中ですっかり満たされて、ため息になって出てくる。

「しあわせ?」

「しあわせ……誰かのものになったりしなくてよかった」

「凪はボクのものだから。……もう、そう言ってもいいよね?」

「透のものだよ」

 彼の片頬を思いっ切りつねる。彼が「痛いよ」と涙目になる。

「ほら、夢じゃないでしょう?」

「うん、確かに夢じゃなかったよ」

 ついばむようなキスをする。




「ただいま。あら、柿崎くん来てるの?」

「お母さん、お帰りなさい。お店に行ったら凪は戦力外通告受けてて、帰るのに困ってたみたいだったから送ってきました」

「この暑い中、悪いわねぇ」

 相変わらず、二人は変に仲がいい。

「柿崎くんはもう夏休み?」

「もう少しなんだけど、実質、夏休み。凪の松葉杖は任せてください」

「この間まで凪は見てられなかったから、バチが当たったのね」

 透は何も言い返せなくて、黙ってしまった。叱られた子供のような顔をしている。


「バツを受けて、今より凪をしあわせにするから。お母さんも」

「あら、この子は」

 お母さんは朗らかに笑った。思えばお母さんがそんな風に笑うのは珍しいことだった。お父さんが亡くなって、わたしたち二人きりになってからこの家で、二人でひっそり暮らしてきた。おかしなことなんて、口に出すことはほとんどなく。


「じゃあ凪がなんて言ったって、わたしは柿崎くんの味方をするから。凪をもらってくれるまでいつまでも待つわよ」

「ボクじゃ頼りないと思うけど、少しずつ頼れるようになるから、お母さん、ちょっと待っててね」

 わたしたちが三人で住む日がそのうち来るのかなぁと、それこそわたしの実感がないまま、ふたりは楽しく話していた。




「柿崎くんと仲直りできてよかったじゃない」

 食後にブドウを食べながらお母さんが言う。

「うん、そうだね」

「そうだねって、他人事みたいに」

 お母さんは笑った。

 今日、肌を重ねたからと言って油断できるわけではない。それはこの間、痛いほどよく知った。かと言って常に監視するわけにも、嫉妬に身を焦がして暮らすわけにも行かない……。

「凪」

「はい?」

 テレビのニュースを熱心に見ていたわたしに、お母さんが突然、声をかけた。


「柿崎くんのこと、待ってあげなさい。あと3年すれば社会人よ。その間に確かに凪も年をとっていくだろうけど、年を取ればとるほど年齢差って小さく感じるものよ」

「……わかってる」

 幼く見えた彼は確かに大人の男性と呼んでも差し支えないくらい、大人になった。わたしだけが時が止まったかのように精神的に成長していないと思うときがあるくらいに。

 わたしの方が大人にならないといけない気になる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る