第71話 「初めて」みたいな
足を捻ってしまって、仕事にならない。櫻井さんから、腫れが引くまで休んでいいと言い渡される。立ち仕事だし、書籍は重いので、なかなか重労働なのだ。
「なんで足を捻ったの?」
「それは、えーと……」
言い淀む。でもしっかり顔に出ていると思った。
「その顔は、恋愛関係だね。柿崎くんと上手く行ったか、新しい彼氏ができたのか」
櫻井さんは食後のコーヒーを飲みながらそう言った。
「……櫻井さん、鋭いですね」
「凪ちゃんが何でも鈍いんだよ」
「な、何でもですか?」
「鈍いだろ? 男だってナイーブなんだから、少しは気をつかってやらないと」
確かに一理あると思った。わたしは自分の気持ちに振り回されてばかりで、周りの人の気持ちをよく見ていない。特に男の人となると尚更だ。
「で、柿崎くんだね?」
「え、なんで?」
「なんでわかるのかって? それは、そこに柿崎くんがいるからだよ」
え !? と思って振り向くと、確かに透がそこにいた。櫻井さんは、
「柿崎くん、凪ちゃんは今日は午後は帰ってもらうから。そうそう、凪ちゃん、三連休だからね」
と伝票を持って出ていってしまった。
透は店に入ってきて、わたしの向かいに座った。
「お昼は櫻井さんと一緒なんだってね」
「うん、大体は」
彼は見るからにむすっとして、わたしからは話しかけるのが難しかった。
「透はご飯食べたの?」
「まだ」
「わたしはお茶飲んでるから、食べたら?」
メニューを受け取った彼はアラビアータを頼んだ。
「櫻井さんはほんとにいい人だと思うけど……」
「ん?」
「それでも毎日、お昼が一緒なんてやだな」
ぽかん、と呆れてしまう。彼は櫻井さんにまでヤキモチを妬いている。
「なんだよ、そんなにおかしい?」
「うん、けっこう」
「もう夏休みに入るから、そしたら毎日、ボクと一緒だよ」
思わず笑みが浮かぶ。彼のかわいらしい嫉妬にも、夏休みの2カ月間、彼の独占権があることにも。
透が長い指をテーブルの上のわたしの手に伸ばしてきた。
「ねぇ、絶対、一緒にいて。なんでもするから」
「お友だちと旅行とか行かないの?」
「全部、断った」
驚いて、カップをソーサーに置く。
「そういうのって今しかできないことだから、行ってきたらいいのに」
「……女子も行くし、要らぬ誤解をわざわざ招いてまで行きたくない。凪がいてくれればそれでいいんだよ」
彼は目線を外して照れた顔をして窓の外を見ていた。久しぶりに、透のそんな顔を見た。
家に帰るまで透が支えてくれる。
「凪、重い。ボクとケンカしてる間に太ったでしょう?」
「太ってないよ」
「相手の人、甘いものがすきだったんじゃないの?」
「そんなこと……」
「……ごめん、調子に乗りすぎた。今のは自虐だった」
あの日、野田くんの着ていた服を思い出す。ブルーのシャツをTシャツの上に羽織っていた。そのシャツが、岬の灯台の海風ではためいていた。
「痛くない?」
「湿布貼ってるから、力を入れなければ大丈夫」
「そっか、仕事、休みになってごめん」
「なんで謝るの? わたしが階段から落ちたの知ってるでしょう?」
彼の目が、わたしを甘く見つめた。忘れかけていた恋人の目……。
「ボクに会うために落ちたんでしょう? だから、ボクのせいだよ」
「ただいまぁ」
と透はうちの玄関で大きな声を出した。
「……あれ?」
「お母さんも最近、週3でパートに出てるの。スーパーの品出しだって」
「そうなんだ」
透はなぜか仏壇のお父さんの遺影をしげしげと見ていた。
「麦茶、飲む? 冷えてるよ」
「うん、飲む」
ごくりごくりと、音をたてて彼は麦茶を飲み干した。今年の夏は想像以上に暑くて、心なしかセミの声も少ない
「2階、冷房つけてくるね」
「バカ、凪、まだ歩けないじゃん」
よろけたところを助けられる。
「気をつけないと。治らなくなるよ」
「ありがとう。わたし、うっかりしてるから」
そおっと、彼の唇が近づいてきてそおっと、まぶたを閉じる。ここ最近、こんな日がまた来るなんて信じられなかった。やさしくやさしく、初めてのときみたいに口づけをする……。
「玄関でキスするなんて、いやらしいな」
「外でもするじゃない」
くすり、と互いに笑う。
「……キスしたのって、小田さん?」
ドキッとして、とても彼を見ていることができない。
「ボクがこんなこと聞ける立場じゃないのはわかってるから、答えたくなかったら、それでいいんだ」
小田くんの言っていたことを思い出していた。
『言いたいように、言えばいいんだよ。言いたくない時は口を開かなきゃいい』
黙っていることも許される。上手く言ってもいい。わたしは?
「小田くんとおつき合いを真剣にして、結婚するのもひとつの選択かなって思った……」
一息に言ってしまう。思い切って目を上げると、透は言葉を発せず何かを考えていた。
「それ言われるとけっこう堪える。真剣に考えたいから、今は軽い気持ちで『結婚』とか言えない。その点ではボクは小田さんにどうしても勝てない」
そうだよね……、と小さく呟いた。別に結婚を焦っているわけではないのに、この話に引かれてしまったことがひどく辛かった。と、同時に軽々しく「結婚」と言わない彼がまた少し大人に見えた。わたしを安心させるためだけにつける嘘もあるのに、誠実であろうとしてくれるのは、大切にされていると感じられた。
「凪は早く結婚したい?」
「まだ、特には。友だちの結婚ラッシュもないし、お母さんもひとりになっちゃうしね」
「『結婚』て言葉は今のボクには重いけど、もしそういう時が来たら、ボクはお母さんを一人にしないよ?」
「仲良いもんね」
「仲良いでしょう?」
どちらにしても、わたしたちの間にはまだまだそれは遠い未来のことだ。
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