第70話 恋をしている
『会える時間があったら、教えてください。今度はわたしが会いに行くから』
すぐには既読がつかない。授業中なのかもしれないし、テストなのかもしれない。もうすぐ大学も夏休みだ。
呆然と部屋で体育座りをして考え事をしていた。物事の整理は今以上につきそうになかった。しなければいけないのは「気持ちの整理」。
どうしたら、彼のしたことを忘れられるんだろう? それさえできれば物事はもっとシンプルになるのに。
反面、忘れるのはたぶん無理だと思う。一生忘れられない。心に嫉妬の炎が燃え盛り、残ったものを抱えて生きていかなければならない。
でもわたし、まだすきなんだ。
そんな情けない自分に呆れて腹も立たない。
すきなんだ……。
純粋でひたむき、時に性急で情熱的、やさしくて、いつもわたしのことを思ってくれる。……やさしさに甘えすぎたのかもしれない。透が子供だと思って「たか」を括っていたのかもしれない。こんなことになったのは、どこかわたしにも悪いことがあったのかもしれない。
膝を抱えて、うなだれる。
さすがに浮気されて「大丈夫よ」と言えるほどバカでも大人でもない。……浮気は許さなくても、彼を許すことはできるだろうか?
『凪の家の前にいるよ』
急いで階段を下りる。きっとわたしの足音が外まで聞こえているに違いない。階段を一段、踏み外して転ぶ。ぶつけたところがとにかく痛む。
「凪、何やってるの」
とお母さんのたしなめる声が聞こえる。
とにかくサンダルをつっかける。何でもいい。今、会わないと。本当に二度と会えなくなるかもしれないから。
「すごい音がしたけど、大丈夫なの?」
それが彼の第一声だった。
「……足を滑らせたの」
「待ってられなくて会いに来ちゃった。着信あったのすぐに気がつかなくてごめん。電車の中だったんだ。駅からとばしてきたんだけど」
その言葉の一言一言がわたしの胸の内に染み入る。彼の発する言葉のひとつひとつに、わたしの心は波立つ。
「どうして透がいなくても大丈夫だと思ったんだろう、わたし……」
足を上手く着くことができなくてふらついたわたしを、彼は受け止めてくれる。そしてそのまま、抱きしめられる形になる。
「それはボクが不甲斐ないからだよ」
わたしをそっと抱きしめた彼の指先から緊張が伝わる。
「恋人同士じゃなくてもいいから、またボクと会ってくれますか?」
わたしは彼の目をそっと見上げた。わたしの顔を見下ろす彼の目と、彼の目を見上げるわたしの目が合う。
「凪じゃなくちゃダメなんだ。ボクは間違ったことをしたし、おまけに凪がすきになった人みたいに大人じゃない。……凪がその人と本当につき合うようになるまでだけでもいい。会ってくれる?」
彼の頬に両手を伸ばす。顔を少し傾けて、口づけをした。
「もう、ふってきちゃったよ」
ぎゅうっと抱きしめられる、痛いくらいにぎゅっと。
「それはそういうことだと思っていいの? ボクは全然大人じゃないよ。もうこの間みたいな間違いは起こさないけど、凪の望み通りではないと思うよ。そんなボクでいいの?」
「透しか考えられないからここに帰ってきたの。……迷惑かな?」
「迷惑だなんて。……ずっとそばにいてほしい」
彼の腕の中はいつも通り何も変わっていなくて、急いで来たと言った通りTシャツが汗でしっとりしていた。それでも彼に包まれていたいと感じるのだから、やっぱりわたしは重症だ。彼に恋しているんだ……。
「……足が痛いかもしれない」
「え? うちにとりあえず入った方がいいよ」
透に肩を借りてうちに入る。
「凪、あんた階段から落ちたんじゃないの?」
お母さんがのんきな声で玄関に出てくる。
「お母さん、お邪魔します。凪は足をひねっちゃったみたいで」
「……あら、柿崎くん、いらっしゃい。どれ、足を見せなさい」
「大丈夫そうですか?」
「折れてはなさそうだから湿布を貼れば。……柿崎くん、こういうことに口出ししたらいけないと思うんだけど」
わたしは激しく動揺して、お母さんを止めようとした。情けないことをしていた日々を思い出したくない。
「お母さん、やめて」
「凪は柿崎くんにふられたって、ずっと元気がなくて。仲直りしたならよかったわ」
「すみません、ボクのせいなんです」
「恋愛ごとはお互いさまだけどね、凪は確かにしっかりしたところもあるし、何より柿崎くんより年も上なんだけど、意外と傷つきやすいのよ。まだつき合うつもりなら、そこを大切にしてやって」
「……はい。心に留めておきます」
「ほら、応急手当はしたから歩けないんだし部屋にでも行きなさい」
親からそんなことを言われると自然に恥ずかしさがあふれて赤面してしまう。透と目を合わせると、彼も同様だった。丁重に断ったのだけど、狭い階段を透に背負われて上る。
「階段から落ちるなんて、どれだけ急いだの? ボクは凪をいつまでも待てるのに」
「……少しでも早く会いたかったの。自分の気持ちに素直じゃなかった、わたし。すきじゃなかったら嫉妬しないものね」
部屋のドアを閉めたところで唇を捕えられる。舌と舌がもつれ合って、不器用な彼のキスをだんだん思い出す。やさしくベッドに倒される。
「足を傷めたから立ってるのは辛いでしょう?」
「そういうとこ、狡い」
「本気で言ってるんだよ」
わたしの背中のところにクッションを入れてくれる。
「楽になった?」
「うん……」
妄想してた自分を恥ずかしく思う。
「すきだよ」
「うん……」
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