第69話 まだ伝えたいこと
小田くんの部屋はきれいに片づいていたけれど、雑誌が山積みだったり、スーツが下げっぱなしだったり、忙しいんだなと思わせる部屋だった。車関係の雑誌に、文芸書が無造作に積んである。本をたくさん読んでいるのが見て取れた。
「玄関にいないで入って。あ、来たこと、後悔してる? 昼間っから押し倒したりしないから大丈夫だよ」
彼は軽快に笑ったけれど、考えていたことをそのまま言われてしまい、恥ずかしくなる。
けど、上がってしまったら戻れなくなるかもしれない。……どこに?
「お邪魔します」
靴を脱いで反対向きに揃える。初めての家は緊張する。
「凪はそっちに座って。何飲む? アイスコーヒーもあるよ」
「ジュースもある?」
「ある。カルピスでいい? お子様だな」
「じゃあ、カルピスで。お子様でけっこう」
座っていても腰が落ち着かない。ちょっと早いけど、持ってきたものを出してしまう。
「あのね、お昼にどうかなぁと思って。料理が全然ダメだから、母に教わったんだけど」
「すごいじゃん! オレ、おいなりさん好物なんだよ」
「本当に? よかったぁ」
「じゃあひとつ、つまみ食い」
「あ!」
彼はわたしが詰めたおいなりさんを、パクッと食べてしまった。体育会系だっただけあって、豪快な食べっぷりだ。
「うーん、上手い。お茶、あったかなぁ」
キッチンの納戸をごそごそ探して、緑茶が出てくる。
「やっぱりおいなりさんにはお茶がないと」
にこっと、人好きのする顔で笑った。
「お母さん、おいなりさん、教えてほしいんだけど」
「なぁに突然、料理なんて。ああ、柿崎くんね」
「……違うの、別の人」
「別れちゃったの?」
わたしは口を開きかけて黙った。なんて説明したものかと考える。本当の事は、言い難い。
「わたしがふられちゃったの」
「まぁ、当人同士の問題だから何も言わないけどね。凪がそれでいいならいいんじゃない? ただ、言いたいことを残すのはやめるんだよ」
「え?」
お母さんは深いため息をついた。
「あんたにはそういうとこがあるから。柿崎くんとダメになった理由はお母さんにはわからないけど、言いたいことを我慢して別れちゃうとね、その後は二度と話す機会がないことの方が多いものよ」
小田くんの食べっぷりを頬杖ついて見ながら、お母さんとの話を思い出していた。わたしは透にまだ何か、伝えたいことがあるのかな? 酷いことはたくさん言った気がする。二度と許せないと思ったから。
酷くないこと……まだ話していないことがあるのかな? 自分の気持ち、とか?
「凪は食べないの?」
「え? ああ、うん、食べるよ。作ってきた責任もあるし」
「責任ね」
小田くんは席を立って何をするのかと思ったら、すまし汁を作ってくれた。
「具が卵とネギだけど、無いよりいいだろう?」
「うん。……ごめん、本当に何も作れなくて」
「いなりずしが作れたんだから、練習すればできるよ、なんでも」
彼といると何でもできそうな気になる。もしダメでもわたしを支えてくれるんじゃないかって、そんな気になる。小田くんの部屋に上がってからの緊張が、ぷつんと切れた。
「さて、おいなりさんのお返し、しないと」
彼は車のキーとお財布を持って出かける準備を始めた。
「え? 外に出るの?」
「車の中、暑いと思うから少し換気する。凪はここで待ってて」
チャリン、とキーホルダーの音が鳴ってひとり、部屋に残される。……今日は、部屋でずっと過ごすのかと思った。わざわざ彼の部屋に来たのだから、それはそういうことを含むのかと。
……つまり、彼は大人なんだ。落ち着いているし、自分を律する方法も知ってる。わたしも彼と同じように大人なんだろうか……? 自信が持てなくなってくる。
教師のときはずっと、学生たちの中に混じっていてわたしだけがクラスで大人だった。透とつき合っていても、何回考え直しても相対的にわたしは大人だった。
彼の、大人になる速さについて行けなかった。相対的なんて、なんの意味もなさなくて知らないうちにどんどん彼は大人になってしまう……。わたしを追い越しそうな勢いで。
浮気をされたのは何度考えても、それが未遂だったとしても許せそうになかった。わたしは――
許せないのは、まだすきだからだ。いつまでも考えてしまうのは、真正面からはっきり「別れよう」と言えないのは、わたしの弱さではなくてまだすきだからなんだ。
お母さんの言いたかったことはたぶんこのこと……。透に本当の気持ちを伝えなければ決着はつかない。
サンダルを履いて表に出る。車のエンジンをかける彼がいる。躊躇した。でも、顔を上げる。
「ごめんなさい、わたしにもう少し時間をくれる?」
車のドアを閉めた彼が、わたしを見て口をつぐむ。
「……そういうこともあるかと思ってたよ。送るから、乗って。歩いて帰ったら熱中症で倒れるよ」
「ごめんなさい……」
「『ごめんなさい』が多いよ、凪は。オレもそう言われているうちはまだ、凪の心の中に入りきれてないんだと思うよ」
うちまでは車で行くとすぐだ。何かを話すほどの時間もない。いくつかの信号待ちのとき、彼は考え事をしている目をしていた。
「……男らしくないと思うんだけど」
「うん」
「上手くいかなかったときはオレのとこに帰ってきて。オレは凪の心がオレに傾くまで、ゆっくり待つから」
「……ごめんなさい」
彼はくすり、と自嘲気味に笑った。
「ほら、『ごめんなさい』が多いだろう?」
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