第65話 利用してくれていい

 ――きみを忘れない


 車内ではまたスピッツが流れていて、わたしを悲しい思いにさせる。別れの歌じゃないかもしれないけど、その一節が、終わっていくかもしれない恋を連想させる。


「彼が浮気したんだね?」

「ごめんなさい、何も言わないで一日、つき合わせてしまって。……そうなの、わたし、浮気されちゃって」

 軽く言ってみたけど、次の言葉は出てこなかった。

 今日は一日、久しぶりに外に出てすごく楽しかった。そうしてくれたのは小田くんなのに、きちんと話さないのはフェアじゃない。彼の好意に乗っかったままでいいわけじゃない。


 ようやく市街地に出て、周りには見慣れたファミレスやコンビニが営業を知らせる看板を煌々と光らせていた。小田くんは、コンビニの駐車場に車を停めて、ため息をついた。

「ムカつくよ……」

 ハンドルにもたれて、彼はそう言葉を漏らした。


「彼氏と喧嘩したんだなとは思ったんだ。今までいくら誘ってもお茶もしてくれなかった相澤さんがオレを誘ってくれたんだ。いろいろ考えた。でも、浮気ってなんだよって思う」

「小田くん、本当にごめん……」

「相澤さんが謝ることはないよ。今日は予想した以上に楽しかったし、相澤さんも楽しそうでうれしかったから。だけど、相澤さんからホテルに誘われるなんて。勝手だけどオレはきみにはそういう女性ひとになってほしくない。でも彼がきみにそうさせたんなら、彼はそういうことをしたんだろう?」


 わたしは膝の上でハンカチをきつく握りしめた。涙がこぼれるたび、今日の楽しかった思い出が一粒ずつ、減ってしまう気がした。そうして、今日一日、無かったことにしてきた「本当のこと」がするすると隠してあった扉の奥から出てきてしまう。

 苦しくて、苦しくて、苦しい。

 胸が張り裂けそうな圧迫感を感じて、持ってきていた薬のことをふと思い出す。飲み物を買って……。


 キスされた。


 ゆっくりと彼がわたしに近づいている気配を感じて目を閉じた。

 小田くんは女性経験がよほど豊富なんだなと頭の隅で思ってしまうような、長い、大人のキスだった。彼はわたしの髪をくしゃっと掴むようにしてわたしの頭を支えた。体の中のどこかが彼を感じてしまって、吐息も熱くなる。

「小田くん……」


 彼は二度目のキスをわたしにした。痛みはどこかに消えてしまった。何もかもわからなくなって、足のつかない浮遊感を感じる。わたしの背中に手が回る。わたしも考えもなく、彼の背中にすがる。

「ごめん、こんなことをするつもりじゃなかったんだ。今日はきみに触れたりしないって決めてたのに」

 心臓がどきどきしていた。彼のしっかりした体に初めて触れた。後悔なんかして、すぐに離れたりしないでほしいと思った。


「小田くん……少し、このままでいてもいい?」

 彼は息を飲んだ。彼の胸に耳をつけているから、彼の気持ちまで今ならわかるような気がした。

「凪……」

 頭からすっぽり包まれるような体勢で抱きしめられる。人に抱きしめられることがどんなに安心できることか思い出す。

「すきだよ、ずっと前から。利用してくれていい、きみが寂しい時にそばにいたい。今日みたいに『その時だけの恋人』でも構わない。考えてみて」


 小田くんの体がそっとわたしから離れて、彼はシフトをドライブに入れる。大人なんだな、と思う。と同時に、大切にされていることを実感する。高校生のときの思い出の中のわたしに、ただ声をかけてきていただけじゃなかったんだ。彼は、大人になった今のわたしをすきでいてくれている……。




『まだ別れたわけじゃないよね? 話だけでも聞いてほしいんだ。会いたいよ』


 送ってもらって家に着くと、透からメッセージが入っている。毎日、ほぼ同じ内容のメッセージが届く。返事はしない。そんなこととは無関係でいたい。




『今日はありがとう。本当にすごく楽しかった。理由をきちんと言わなかったこと、ごめんなさい。一日中、運転して疲れたんじゃないかな?今度は小田くんの行きたいところへ連れて行ってください』


 この文面でいいかしら、と迷う。考えすぎるとごちゃごちゃした文章になるのはわかっているので、そのまま送ってしまう。きちんと書きたいことが伝わったのかしら、と心配になる。


『楽しかったなら何より。楽しかったことだけ覚えててくれたらうれしい。次に行くところ、考えてみるよ』


 次に出かけるなら……透とのことはスルーにしてるわけにはいかないと思った。小田くんと同じように、わたしも彼に真摯な態度で接したい。


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