第66話 終わりの予感
『もう一度、チャンスをください』
7月も半ばを過ぎた頃、そんなメッセージが届いた。ぼんやり文字を見つめる。
透からの一方的なメッセージが、1列に並び始めて何日になるのか、数えたくなかった。
チャンスって何だろう? チャンスがもらえるなら、わたしがもらいたい。……前に戻れるチャンス。何もなかったときに戻れるチャンス。
考えることに疲れてしまっていた。
『明日、いつものカフェで』
パッと既読がついて、返事が早速くる。
『仕事が終わるの、待ってる』
自分の諦めの悪さに嫌気がさして布団に倒れ込む。まだ心のどこかで、これは悪い夢で「何も無いよ」って彼がいつもの人懐こい笑顔を見せるのを期待している。そんなわけ、ないのに。……現実はいつも厳しい。
「凪ちゃんさ」
「はい」
お昼を櫻井さんと一緒にとってるとき、声をかけられた。
「最近、どうしたの? ただ具合が悪いならそっとしておくけど……柿崎くんと喧嘩したんじゃないの?」
「……」
パスタを半ば持ち上げたままのフォークを、お皿に戻す。
「はい……」
「何が原因かは聞かないけど、逃げ回ってばかりなのは何の解決にならないよ。柿崎くん来ても、見ないふりして帰っちゃうでしょう?」
透は何日かに一度、お店にも予告通り顔を出した。そんな日は、お店の裏からそっと帰ってしまった。
重い足取りでカフェに向かう。裁かれるのはわたしではないのに、気分はわたしが罪人だ。だって、こんなに心が苦しい。
透はわたしより約束通り先に来て、いつもの席に座っていた。
「凪……会ってくれてうれしい」
わたしは椅子を引いて荷物を置いて、彼の対面に座る。
「あんまり話したいことはないの。……わたし、たぶん透のしたこと、許せない。それを言いたかったの」
彼の表情は固まったけれど、それから悲しそうな顔になった。
「うん、凪がそう言うのもわかるよ。ボクのしたことはそれに見合ってると思う。……ボクがいると辛いよね」
心の中で何かが何かに握りつぶされて、ぎゅっと音をたてる。手を伸ばしてもすがりつく場所が見当たらなくて宙ぶらりんのままだ。
「もっと辛くしてしまうかもしれないけど……別れたくない。一緒にいてほしい」
アイスコーヒーの入ったカップを両手で持っていた。結露した水が次々と指を濡らしていく。
「今は、気持ちに整理がつかないの。整理がつく保証もないし、別れた方が良くないかな?」
「ダメだよ。ムリだよ」
「わたしだってムリ。その手で……彼女にどこまで触れたの? どんな感触だったの? そういうこと考えちゃって、そんな自分が情けなくて、もう耐えられない。すきだから、すかれてて当たり前だと思ってて……間違ってたよね。ごめん、とにかく無理なの」
彼はすっかり下を向いてしまい、お互いに口に出す言葉もなかった。何を言っても起こったことは消えないし、もし続けても、わたしたちの中には必ずそのことが火種として燻る。それはわかっていることだった。
「わたし、すきな人ができたかも」
「凪? どうしてそんなこと言うの? ただの意地悪でしょう?」
「とっても大事にしてもらってる。彼のやさしさに報いたいなと思うの」
「凪!」
アイスコーヒーのカップを持って逃げるように立ち上がる。彼が立ち上がる。捕まったら……肩を捕まえられてしまったら、逃げ出せない自分がいることを知っているので必死に逃げる。
「凪がなんて言ったって、許してくれなくたって……ボクは凪がすきだから」
夕方の自転車置き場で捕まってしまう。わたしの肩を掴んだまま、彼はわたしを抱きしめようとして、わたしを混乱させる。
「やだ!」
「そんなに?」
「だって、
彼はもう追ってこなかった。
『今度は海の見える温泉はどう?』
帰ると小田くんからメッセージが来ていた。温泉巡りだな、とちょっと笑えたけれど、
『うん、楽しみにしてます』
と返信した。
小田くんは仕事が忙しいらしく、それほどまめに連絡してくるわけではなかったけれど、そんなものだろう、と思うと今まで必死にふたりで会ってた自分たちが子供じみて見えた。
……終わるのかな? 終わるのかもしれない。
週末は夏らしい天気で、海沿いの道は渋滞していてさすがに温和な小田くんもまいっていた。
「何もこんな道路使わなくても、高速もあるのにさ」
「運転は大変だろうけど、わたしは小田くんと一緒にいられることが楽しいから」
「本当に?」
「うん」
着いたところはちょっと古びたホテルだった。
「ここはね、海が見える大浴場があるんだよ」
「じゃあ、この間のときとはちょっと違うのね」
「県内に趣の違う温泉があるなんて面白くない?」
ひとりで入る温泉は、何だか心細くて他にお客さんもいなかったので海に向かっていちばんいい場所でお湯に浸かる。波は穏やかとは言い難くて、まるでわたしの心を表しているかのようにも思えた。
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