第64話 わたしを抱きませんか?

 小田くんが用意してくれたのは海鮮料理のお店だった。ぎょっとするくらいのお値段で、わたしと透ならネットで見つけても「美味しそうだね」でスルーしてしまうくらい。

「そんな顔しなくても」

「だって」

「『初デート』の記念だよ、ここはおごらせて」

 お膳が運ばれてきて、パチンと割り箸を割る。刺し身を一口いただく。……最近、きちんと食べていなかったので、体全体に「美味しい」が染み渡る。


「すごく美味しいです……」

「気に入ってもらえてよかったよ。中には海鮮ダメな人もいるし、そもそも和膳より洋食のコースじゃなくちゃって人もいるから」

 彼の心遣いにわたしは苦笑した。


 小田くんは心から安心したようで、少し照れた顔をして、しばらく目も合わせなかった。

「ずっと、このところ食べるものに頓着してなかったから、すごく美味しい。 選んでくれてありがとう」

「……凪の元気の素になるなら、その魚たちも本望だね」

「もう! 小田くんたら、笑わせないでよ」


 骨だけになって頭がまだついている、元はアジだった活き造りを思わず見てしまって、食べてあげたら本当に魚はしあわせになるかしら、とバカなことを思った。魚だって残されるより食べられた方がいいに違いない。


「うん、よく食べてるね」

 小田くんが自分は食べ終わってしまって、出されたほうじ茶を飲みながらわたしを見ていた。

「この間、会ってから心配してたんだよ」

「美味しいから……」

「疲れてる時はさ、美味しいものを食べたり、楽しいことをするのがいちばんだよ。もう一箇所、予約してるから寄っていいかな?」

「うん」

 わたしを気づかってあれこれしてくれる彼に、申し訳ない気持ちになる。わたしは今までずっと彼から逃げ腰だったのに、今は受け皿になってくれている。




 着いたところは思いっきり和風の旅館で、さすがにそれはお断りするしかないんじゃないかと狼狽えた。

「日帰り温泉、いいでしょう? 泊まると高いんだけど、お風呂だけなら安いんだよ。泊まるとね……」

 耳元で彼が値段を囁く。

「え! すごい旅館なのね」

 耳を疑うお値段だった。

 なんの用意をしてこなくても宿の方でタオルを用意してくれてあって、男湯と女湯に分かれる。

 小田くんは、「温泉の良くないところはこれだよね。ふたりで来ても別々に入るでしょう? でも、それくらいの距離がちょうどいいよね。温泉付きの部屋もあるんだけどさ」

 片手を上げて彼は男湯の暖簾をくぐった。そういう心配りが、うれしくもあり、苦しくもあり……。


 温泉は川沿いにあり、実質、貸切状態の露天風呂は潮風やさっきまでの暑さで流した汗をすっかり流してくれる。清流の流れを見ていた。まだ青いままの木の葉がくるくると流されていく様をぼんやりと見つめる。……一体わたしたちは、どこへ向かっているんだろう。


「さっぱりしたでしょう?」

 わたしが出ると、先に出ていた小田くんが用意されていた冷えた麦茶を飲んでわたしを待っていてくれる。

「うん。海の匂いがすっかり取れてべたべたしなくなった」

 自然と、笑みがこぼれてしまう。別に良くしてくれる彼の親切心に報いようとした訳ではなく、心から出たものだった。

「連れてきてくれてありがとう」

「いや、いいんだよ。オレもたまにこういうとこに来ると、ストレス解消になるしね」

 高校生だったころの小田くんを思い出させた。

 真っ赤な顔をして、わたしがそのときに読んでいた本を聞きにくる。


「どうして?」ってあるとき聞いたら彼は、「自分は理系で国語ができないから、国語が得意な人の読んでいる本を読もうと思ったんだ」と答えた。

 わたしなんかでいいのかなぁと思ったけれど……そのころはわたしも高校生で、まさかそんな思いがあって彼が聞きに来るとは思いもしなかった。昔の話だけれど。




 シートベルトをカチッと閉める。

 空はもう夕闇に包まれ始めた。

「夕日のキレイなところでも連れて行ったら完璧かなと思ったんだけど、すっかり遅くなっちゃったな」

「ごめんなさい、わたしがなんでもゆっくりだから」

 信号待ちの交差点で、ハンドルに軽く手をかけていた彼はわたしの顔を見た。

「謝るところじゃないよ。……そういうところがかわいいって、男は思うんじゃないかな?」

 信号はパッと青に変わって、前の車がゆっくり発進する。小田くんも車を走らせる。


「凪は……相澤さんは、今も10年前もかわいいよ」

 運転中の彼はよそ見をしない。暗くて表情も見えない。どれくらい本気なのか、わからない。

 車は観光客しか通らないような山の中の蛇行する道を抜けて、真っ暗な中にホテルの看板ばかりが立ち並ぶ郊外に出た。

 わたしはぽつぽつと並ぶその看板や、似つかわしくない意匠の凝らした建物をぼんやり見ていた。


「……小田くん。わたしを抱きませんか?」


 少し、車内の空気が緊張する。

「……そういうことはやたらに言うものじゃないよ。しかも、オレの憧れの相澤さんは、そういうことは言わないよ」

 ひどく自分に失望して、後悔の気持ちでいっぱいになる。小田くんにとってはとんだとばっちりになってしまう。浅はかな自分を谷底に突き落としてやりたくなった。




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