第63話 今日だけの「彼氏」

「お母さんが、心配してて」

「うん、そうだろうね。こんな風に仕事サボったの、教師辞める前だけ。透は講義、大丈夫なの?」

 右手に水の入ったグラスを持ち、左手に白い錠剤を持って一息に飲み干す。飲んで直後に効くわけではないのだけれど。その光景を、透が見ている。


「……ボクといると負担かな?」

「悲しくなることを言わないで」

「薬、飲んでるのを見るとなんだかボクが辛くなる」

 そんな必要ないのに、と思う。これは出会う以前にわたしが我慢できなかったことを捨てたバツだ。透と会う前のことなのに、責任感を彼が感じる必要は全然ない。

「ねぇ、わたしたちしばらく会わない方がいいと思う」

「凪? 別れたいってこと?」

 透はいつもと違う、まだ繊細なところの多かった高校生の頃のような顔をした。わたしのことを、あの頃のような目で見る。


 ああ、終わっていくのかな。そうやって、知らない人になる。

「よくわからないの、考えさせて……」

 布団に潜る。それで何かが解決できるわけじゃないのは自分がいちばん知っているけど。

「嫌かもしれないけど、LINEもするし、たまに今日みたいに会いに来る。仕事にも、カフェにも、凪に会いに行くから。ボクは戻れないけど、高校生だったときと同じくらい凪に好かれる努力をするから」




 思った以上に負担が半端なかった。

 何をしても悲しいし、何をしても自分は捨てられるべきつまらない女にしか見えなかった。

 久しぶりに病院に行った。「様子を見ましょう」ということで、また安定剤をもらって帰ってきた。

 何もかも、彼に会う前のようにボロボロ……。




 公園のベンチに座ってお弁当を食べていると、目の前にコーヒーが現れた。

「やあ、なかなか会わなかったね」

「野田くん……」

「隣、いい?」

 こくん、とうなずく。カフェモカの甘い香りが少し、心を和らげる。

 コーヒーを一口すすって、野田くんを見た。


「ほら、こんなに会わなかったでしょう? ストーカーじゃないんだよ」

 野田くんは屈託ない笑顔を見せた。

「そうね、久しぶりだもんね」

「……前に会ったときより元気ないように見えるんだけど、なんかあった? 話したかったら、話して、聞くから」

 沈黙がわたしたちの間に流れて、彼はコーヒーをゆっくり飲んでわたしを待っていた。


「……今度、お休みが合うときにどこかに連れて行ってもらえませんか?」

 小さい声で思い切って聞いてみる。そういうのは慣れていないのでどうしても声が小さくなる。

「オレの車、いい車だよ。なんと言っても商売道具だからね。どこに行きたいか考えておいて。連絡して、休みは合わせるから」

 野田くんはそう言うと、仕事に戻らないといけないと言って颯爽と消えてしまった。

 ……こういう方向でいいのかなぁ。小田くんは、大人でやさしい。




『今週末は日曜日が休みです。もし聞いてくれるなら、海に行きたいかも』


 約束とか、初めてするときにはもっと緊張するかもと思っていたけれど、意外とするすると打って、軽く送信してしまった。


『OK。休みは合わせられると思う。紫外線カットして来て』


 不意に何を着ていこうか心配になる。紫外線か……。紫外線カットの軽いカーディガンを着よう。海なら、デニムでもいいかも。久しぶりに心が動き出す。




 当日は嘘のような晴天で、彼の言った通り紫外線ギラギラだった。カーステレオは、スピッツとか流していて、小田くんに「すき?」と聴かれる。「うん」と答えて、ふたりで曲の好きなところを言い合ったり、歌詞があやふやだと鼻歌を歌いあったりしてあっという間に海に着いてしまった。


 わたしたちは砂浜脇の駐車場から水平線をまぶしく眺めていた。砂浜がずっと続いて、まだ夏休みにはちょっと早い海には、ボードをする人の姿が見える。

「あのさ」

「うん」

「……何も聞かないから、今日は『彼氏』になってもいいかな?」

 びっくりしてわたしも考えた。今日はワガママも聞いてもらってるんだし、実質、独り身なのだから……、と思った。


「どうぞ。1日、よろしくお願いします」

「こちらこそ。……じゃあ、、ご飯食べるところ予約してあるからさ。あ、呼び捨て、いい?」

「カレカノなので」

真っ赤になって照れる彼が制服を着ていた頃を思い出させて、こっちまで恥ずかしくなる。

 車に乗ると、今度はベタにサザンの古い曲が流れていて、忘れたくなる出来事を忘れさせてもらえない。


 I love you more than you love me ……

 あなたがわたしを愛しているよりもっと、わたしはあなたを愛してる


 甘く切ない曲は今のわたしには感傷的すぎて、窓の外の海を見ているふりをした。

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