第62話 狡いと思う
どんなことがあっても、いつもの時間に目が覚める。今日はどんなに心が痛んでも仕事に行かなくてはならない。
……本当に?
行けない。今日はとても、無理。
「今日はゆっくり休んで。大丈夫、凪ちゃんはいつもよく働いてくれてることはみんな知っているし、オレは凪ちゃんの抱えているもののことを聞いてるからね。具合の悪い時はお互い様だよ」
櫻井さんはやさしい。休みたい、と電話したら理由も聞かずに休ませてくれた。まさか、失恋が原因だとは思わないんだろうなぁ。最近、お店で待ち合わせるときはそんな風には全然見えなかっただろうから……。
人のやさしさにつけ込むのは気が引けたけれど、でも、ダメなときにはダメなんだ。布団に、抱えていたクッションごと頭まですっぽり逃げこむ。
今日はここから一歩も出ない……。
「あら、凪なら部屋にいるわよ。呼ぶ? 上がってく?」
「よかったら上がらせてください」
嘘。透は今日は朝からきっちり講義が入っているはず。学期末の大事な時期に、休んだらまずい講義がひとつはあるはず。
階段から足音が規則正しく聞こえてくる。それはわたしの部屋の前で止まって、少し間を置いてからノックが聞こえた。
「凪……お店に行ったんだけど、櫻井さんが休みだって教えてくれて。それで……。こんなの反則だと思ったんだけど、話をしたくて」
正直に言えばずっと待っていたその声のやわらかさに、張りつめていた心が緩んで布団の中で涙が止まらなくなった。嗚咽が漏れるのを防ぐことができない。
「ごめん……泣いてるよね。ボクだって反対だったら泣くと思う。ひどいことを、したと思う。凪を裏切った。顔が合わせづらかった……ごめん」
「待って、行かないで。話、聞くから。何も話さないで置いて行かないで」
透はそっとドアを開けて部屋に入ってきた。わたしは布団の中から顔を出さざるを得なくなった。
「それは凪の本音?」
「だってどうせ別れるんなら、自分が捨てられる訳を聞いて、納得してからの方が思い出さなくて済むもの」
透は困ったことを抱えている人の顔をしていた。
「先に言うね。別れたくない」
「狡くない?」
「狡いと思うよ。でも、凪のことなら、多少は狡くならないといつまでも手に入らないから」
彼は大きなため息をひとつ吐いた。除湿をしている部屋の窓ガラスを曇らせることができそうなため息だった。
「あのさ……。言わないわけにいかないから言うね。神取と、したよ。聞いた通りだと思う」
「……いつ?」
「先々週、実習で遅くなって、男子がさ、うち、女子少ないから送ってくことになって、割り振られてボクは神取を送ったんだ。あいつのとこ、マンションで。で、そのまま帰るつもりだったんだけど、せっかくだから、とか言われて上がっちゃって、思えばそれがバカだった」
情景がありありと目の前に浮かぶようで、その生々しさに指先が震えた。あんなキレイな子の誘いをどうやって断れるんだろう?
「初めてだっていうから、女の子もそういうの気にするのかなと思ったし、一度だけなら……って思ったんだけど、途中でそうじゃないことに気がついて。だから、最後まではしてない。でも、凪を裏切ったことになるのはわかってる。凪がボクを許してくれるか……許してもらえるか、聞きに来た」
「それ、わたしが決めるの?」
髪がぐちゃぐちゃなのはわかっていたけれど、布団から出てパジャマのままでベッドに座った。彼の顔をやっと視野に入れる。この人がわたしの好きなひとなんだと思うと、心のどこかがじーんと痺れて、何もかもどうでも良くなってしまいそうな衝動に駆られる。
「許してください。二度と、こんなことはしないって誓うから」
頭を深く深く下げる彼を、今すぐ抱きしめたくなる。と、同時にどこまでであれ、彼女の体に触れた彼の体を嫌悪する気持ちが止められない。
「許してくれるなら、もう他の女性には触れないから」
「……許したい自分がいるの。でもね、許せない自分もいて……」
「凪、待ってて」
透は慌てて下に向かった。たぶんわたしの安定剤のために水を汲んだグラスを持ってくるのだろう。ひどく頭が痛かったから。
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