第59話 じゃあ、また来る?
帰りの電車はほどほどに混んでいて、わたしたちは列車の奥の方に立っていた。
ガタンと揺れる度に、透が支えてくれる。この夏を越えたら……つき合い始めて1年になる。最初はそんなつもりじゃなかったのに、わたしはすっかり彼に頼りっきりで、こんなんでよく年上とか年下とか言えたものだ。
「どうしたの?」
彼を見上げる。少し心配そうに、わたしを気にかけてくれる彼に小さく首を振る。
「ううん、なんでもないの。ただ……」
「ただ?」
「わたし、透に甘えすぎじゃない?」
彼はわたしを揺れから守るようにして、わたしを抱きすくめた。
「え、あの、人前……」
「かわいいんだもん。すごく、かわいい」
そのまま黙って、降りるまで彼に抱きしめられていた。彼のパーカーは雨の匂いがした。
駅に着いてまだ帰るには早かったので、書店下のカフェに行く。カップふたつとマカロンふたつ。わたしがラズベリーで、彼はピスタチオ。選んだのは彼。
「
すっかり慣れ親しんだカフェは、半日、出かけていた疲れをほぐしてくれる。自分の家に帰ったときのような気持ちで深くイスに腰掛ける。
「紹介してあげたいところだけど、わたしの知ってる子、ほとんど卒業してると思う」
透の話に笑ってしまう。忍野くんはわたしたちの話のタネになってくれるけれど、わたしが知る限りとても気の利く男の子だ。外からくるわたしに、気がつくと声をかけてくれる。気配り上手なのだと思う。
「それで、どうだった、今日は?」
「うーん……」
わたしは一日を思い出してみた。
「すきな人に会いにいくのって、やっぱりすごくドキドキする。これって、『逢瀬』なのよね、たぶん」
「凪、そういうことを聞いてるんじゃなくて……」
「え? これもデートじゃないのかな?」
「……」
彼は照れた顔をしてそっぽを向いてしまった。ガラスに映る今日の彼の顔は、ちょっとかわいい。
「えーと、わかってるの。わたしが一人で外に出てどうだったかってことでしょう? ……どこだって透がいれば大丈夫、なんだけど」
「心配してるんだよ、人の多いところで具合悪くなるじゃん? 無理はする必要ないと思うけど、慣れたら違うのかもと思って」
「ごめん、そう思ってくれてるの、わかってる」
話を逸らしてしまったバツの悪さでうつむかざるを得なくなる。ころんとしたマカロンをぼんやり見つめる。
「原因はわかってるの。いつも、『学校』を思い出すと……つまり、退職したことを思い出すとしんどくなるの。だから、大学が自分の慣れ親しんだところだと言っても、それを思い出すきっかけがあれば……」
「具合が悪くなるんだよね?」
こくん、とうなずく。教師を続けるのは無理だと思って辞めたのに、後から辛くなるばかりでは意味がなかったように思う。
「でもね、大学に行くのはある意味『学校』なわけだし、一人で出かけるのは勇気のいる事だし、社会的なリハビリにはなると思ってる。……面倒なことにつき合わせちゃってごめんね」
「凪にとって辛い事が減るなら、それでいいんだよ」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、また来る?」
にこり、と笑って答える。
そう言えば、村松助教授のところにも顔を出さなければいけない。先生にも、その辺のことは少しお話しなければいけないんだろうな……。
「……まだ帰らなくても大丈夫?」
「え? ああ、うん。大丈夫だよ」
彼の言葉の意味するところを読んで、頬が上気するのを感じる。恥ずかしいと思わないこともないのだけど、しあわせな気持ちに満たされる。
一緒に部屋に入って、とりあえずシャワーを浴びる。物音がして驚くと、彼が入ってきた。
「たまには一緒に……いい?」
「……うん、いいよ」
浴室の明かりは何かをするには暗すぎて、裸でいるのには明るすぎる。隠すものもなくてシャワーを浴びるに浴びれないわたしの泡だらけの体に彼が後ろからそっと手を伸ばす。
「いまさら、隠す必要、ないんじゃない?」
「そんなことないよ、いつだって恥ずかしいもの……」
「そういうところもすきだよ」
まだ泡の落ちないわたしの首筋に、彼の唇が触れる。わたしと彼を隔てるのは泡だけだったのに、彼が突然、シャワーを出して髪まで濡れてしまう。隔てはなくなって、残ったのは本当のわたしと彼。
「最初から洗ってあげる」
彼がその大きな手のひらにボディーソープを出して、泡立て始めた。彼にしがみついたまま、この先のことを思ってため息がひとつ漏れた。
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