第58話 学生時代に
「凪、薄着なんじゃないの?」
「そんなことないよ?」
昼食を終えてふたりでコーヒーを飲んでいたとき、透はそう言った。
「……やっぱり学校まで来るの、大変なんじゃない?」
「そうかな? あれこれつまらないこと考えてたらここまで着いたけど」
「ならいいけどさ。一応、ここも冷房効いてるから上着置いていく。凪は今日も薄着だからさ」
「え? いいよ」
渡されたパーカーを返そうとすると、
「薄着は目の毒だから。工学部の男子なんて、みんな飢えてるだろ?」
「そんなことないでしょう?」
彼と話していると笑わされてばかりだ。知り合うまでのわたしと比べたら、当社比8割増くらい、笑うようになったんじゃないかと思う。
「ごめん、じゃあ、行ってくる。終わったら連絡入れてからここに迎えに来るよ」
「あ、うん」
最初からわかっていたことなのに、心がさみしいと言ってわたしを困らせる。彼の袖を引きたい気持ちになってしまう。
「……出来るだけ急いで戻るから」
「大丈夫だよ、透、心配性」
伏せ目がちに苦笑する。さみしい気持ちを何とか押さえようとする。彼は立ち上がりざまわたしの方に身を寄せて、頬にキスをして振り向かずに手を振った。
……こんなところでそんなことをするなんて。わたしは構わないけど、噂になったら困るのは彼なのに。彼は時々、ものすごく大胆だ。
時間を持たせるため、持ってきた文庫本を開く。パラパラと栞の入ったページまでめくって、文字を追い始める。ああ、わたし、こんなところまで来たんだなぁと思う。
この前来た時のわたしは衝動的だった。でも今日は。仕事の出勤日まで変えてもらってここへ来るなんて……こんなことになるなんて、考えたこともなかった。
「相澤くんじゃないの?」
声をかけられて自分のことだとわかるまでの一刹那、誰かしら、と考える。ここを卒業して……。
「村松助教授、お久しぶりです」
文庫本をぱたんと閉じて、思わず立ち上がってお辞儀をする。
「相澤くん、久しぶりだねぇ? あれ、キミは確か……」
「はい、あの、教員になったんですけど……合わなかったみたいで」
「まぁ、そんなこともあるさ」
助教授は「ここ、いい?」と聞くと、さっきまで透が座っていた席に腰を下ろした。
「キミ、ご飯は済んだの? 僕だけ食べても構わないかな?」
「わたしは食べたのでどうぞ」
「んー、何にしようかなぁ。キミ、何を食べた?」
「モッツァレラとトマトの……」
「じゃあ僕もそれにするかな」
村松助教授はわたしが卒論を書くのにとても助けていただいた恩師で、卒業後の進路を心配してくださってたことを思うと頭が上がらない思いだった。
「キミも何か食べなさい。おごってあげるから」
「いえ、いいです。お茶がありますし」
「はい」
デザートメニューを有無を言わさず渡される。固辞しようと思ったけれど、ふとパフェが目に入る。
「先生……あの、チョコレートパフェ、いいですか?」
「もちろんだよ。一人で食べるのはさみしいだろう? ……そう言えばキミは学生の頃、なかなか僕にデザートをおごらせてくれなかったね?」
先生は目を細めて微笑んだ。視線を受け止めきれずにデザートメニューに目を戻す。
「えーと。あの頃は、みんなの前で派手なデザートを食べたり、おごっていただいたりするのが恥ずかしくて」
「キミ、損をしてるな」
先生と話しながら食事をする時間は意外なことにリラックスして進み、先生はわたしの気持ちを数年前の学生時代に巻き戻してしまった。
不意にスマホが振動した。
「すみません」と断って画面を見ると、透からのメッセージだった。
『外に来てるよ』
「あっ」
わたしの視線が動くとその先には透がいて、先生はわたしのその小さな動作でわたしがここで何をしていたのか察したようだった。
「相澤くん、度々学校に来るようなら、ここで暇を潰すよりたまには研究室に遊びにおいで」
「……はい」
「遊びに来るわけだから、今度はキミがおみやげを持ってくればいいさ」
先生は笑った。
「凪の?」
「うん、恩師。卒論でお世話になった助教授。びっくりした」
「ふーん……」
透は何か納得のいかない顔をして、口数が少なくなった。
「どうしたの? 機嫌悪い」
「……凪にパフェを食べさせるなんてボクだけだと思ったのに」
わたしは吹き出して笑ってしまった。そして彼の考えに納得した。
「だって、あのときのことを思い出して頼んだの」
「なんか、懐かしいね」
「うん、すごく。知り合ったばかりの頃だよね?」
ふたりで大きなパフェを一つずつ頼んで、まだ分け合って食べたりできなかったあの頃。彼はまだわたしを「凪さん」と呼んだことを懐かしく思い出す。
「……先生と半分ずつ食べたりしなかったよね?」
「何それ、するわけないじゃない」
指と指を絡めて、冗談を言い合う。雨のホームは屋根があるのに湿っていて、独特な匂いがした。彼に返したパーカーの腰の辺りに軽く掴まって、帰りの電車をふたりで待った。
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