第60話 想いが募る

 大学の夏休みは8月、9月だ。

 透くんの前期テストがその前の7月にあるので、梅雨明け、週末以外はほとんど会えなくなった。「テスト勉強」と言われるとわたしとしてはがんばってもらいたいので、「会いたい」とかワガママは言えない……。

 会えないと、会いたいという想いばかりが募る。梅雨の空は夏空に変わったけれど、心の中には彼を思う気持ちが降り続く梅雨の雨のようにいつまでもわたしを困らせて止まない。


「相澤……凪さんじゃないですか?」

「はい」

 工学部の少ない女子学生のひとりがわたしに声をかけてきた。細い銀縁の眼鏡をかけている。

「ああ、やっぱりそうだ。透の彼女さんですよね?」

「あ、はい……」


 平日はまるで会えないことに耐えられなくて、また学校までサプライズで会いに来てしまった。いつもみたいに笑ってくれるといいな、と思いつつ、迷惑だと思われたらすぐに帰ろうと思っていた。

 指定席となった文学部と工学部の間のベンチで講義の終わりを待った。


「透から聞いてた通り、やっぱり大人の女性らしく落ち着いてらっしゃるんですね。わたし、透と同じ科の神取彩乃かんどりあやのって言います」

 神取さんは口元でにこりと微笑んだ。黒のストレートのすとんとした長い髪にレイヤーがキレイに入っていて、彼女こそ大人っぽく見える。

「お会いしたら話そうと思ってたことがあるんですけど……いいですか?」

「どうぞ」


 彼女はわたしが座っていたベンチの隣にそっと腰を下ろした。「透」……呼び捨てにしてたな。大学でも楽しくやっているんだなと思う気持ちと、自分が部外者なんだと思い知らされたような気持ちに揺れる。誰もそんなことを言っていないわけだし、たいがいわたしも勝手に拗ねて子供っぽいものだ。

「あの」

 彼女はさっきまでの勢いを失くし、何故か恥ずかしそうにうつむいた。


「相澤さん、ごめんなさい。言いにくいことなんですが……わたし、透とんです」

 彼女はその、素直すぎる黒髪をそっと耳にかけた。頬が赤く染って、それは女のわたしから見ても色っぽい表情だった。

「わたし、経験なくて。今までずっと勉強ばかりだったし。男の子のことなんてまるでわからなくて。そしたら、透が……。やさしいですよね、透は。凪さんがいるのに、わたしの『初めて』を引き受けてくれて。いつもやさしいから、なんかわたしも困っちゃって」


 彼女の言っていることの意味がわからなくて、真偽がわからなくて、わたしの頭の中はぐるぐるしていた。頭に来るべきな気がしたし、泣いてしまったら楽なのかもしれないと思った。

 確かにこの数週間、わたしが透に会ったのは週末だけだった。彼はわたしを見て恥ずかしそうに笑い、指をそっと繋いだ。だからわたしはわたしの透をきちんと知っているつもりで安心していた。

 変化があった?

 何かわたしが見落とした予兆が?


「凪」

 少し強ばった声がして、透がわたしに気がついたことがわかる。やたらに顔を上げられず、彼の顔が見えない。目を覗いてしまうのが怖い。

「神取、お前、何を言ったんだよ」

「本当のことだけ。わたしと透の間にある本当のことだけだよ」

「……凪と話すから、向こう、行ってて」


「何も話すことなんて」

 透がわたしを見下ろしている。目に入るのは、透のスニーカーを履いた足先だけだ。なんでこんなところに呼ばれもせずに来てしまったんだろうと、後悔が渦をまく。吐き気にも似たものが胸の奥にどす黒くつかえる。

「わたしは、邪魔者になったってことかな?」

「凪、話を聞いてよ」

「そんなことを聞くためにここへ来たわけじゃないよ!」

 自分の声の大きさに驚いて身が竦む。

「……言ってくれたらよかったじゃない。何も知らない顔で会われるより、正直に話してくれる方がずっとよかった」


 とりあえずその場にはとてもいられなくて。汗をかくのも気にせず、走ってすべてから逃げた。彼からも、彼女からも、聞かされた真実からも。

 持って来たお気に入りの日傘を、ベンチに置いてきてしまったことを頭の隅で悔やむ。

「凪さん!」

 息を切らせて振り返ると透がいるわけではなく、そこには何故か忍野おしのくんがいた。


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