第53話 呼び捨てにしたい
透くんは、火曜日と木曜日は自分の通っていた予備校で講師をしている。
彼が先生をしているというのは、微妙な感じがする。わたしがこの間までは「先生」で、受験のときもわたしが彼に教えたこともあったのに……。
不思議な感じ。
彼の働く、駅の向こうに見える大きな看板を掲げたビルを、仕事帰りに眺める。彼の帰りを待っていたい気分にいつもなるけど、予備校の仕事は終わりが遅いのがわかっているので待っていたことはない。
『今日はバイトだったよ。疲れたー』
『お疲れ様』
お疲れ様……。続く言葉が出てこなくて戸惑う。わたし、何を言いたいのかなぁ。ベッドの上でごろんと転がってみる。
『お疲れ様。透くんのバイト先を眺めてたの。会いたいなぁと思ったんだけど、さすがに遅くなるから我慢して帰ってきた』
これがわたしの心の言葉なのかな、と読み返す。でも、これが真実なのだから、えいっと送信する。
……なかなか返事が来ない。やっぱり重かった? 年上の女で重いのって、なんだか最低だわ、と思う。
『ごめん、重かったよね』
直電。透くんからだ。ひやひやする。
「はい。ワガママ言ってごめん……。大丈夫だから」
「何も言わないうちに、先回りするなよ。明日、早くは帰れないけど講義終わったらなるべく早く帰るから、仕事のあと待ってられる?」
「……無理しなくていいよ」
「無理じゃない。凪が会いたいときは、ボクも会いたいときなんだよ。察して」
胸の奥がじんとする。
わたしの彼が透くんでよかったなと思ってしまう。こんなわたしに分不相応な彼。会えなかったかもしれない人……。
「ありがとう。じゃあ、待ってる。いつものとこで、本でも読んでるから」
「うん、待たせたらごめん」
自分の仕事が終わって、いつものカフェのいつもの奥の席に座る。冷たいものを飲むか、温かいものを選ぶか迷ったけれど、少し待つなら温かい方がいいかなと悩んでカプチーノをすすっていた。
心地よいジャズが流れて、本のページをめくる。めくっているようで、頭に文章が入ってこない。
ガラス窓に車のライトが線を引いていく。ビルの内と外の世界が、内側のまだ賑わう人々と、外側の人並みもまばらな街並みに割れている、。
恋人を待つ。
今まで何度もしたことだけど、年下の、愛おしくて頼もしい彼を待つのは初めてのこと。わたしは今までどこでも、ただの「大人しい子」で通っていて、元カレたちにとっても、それ以上でもそれ以下でもなかった。「凪は大人しい」。
午後、日差しが真夏並みだったのを反映して店内の冷房がちょっと肌寒い。2杯目のカプチーノがさっさと冷めて、猫舌のわたしにちょうどいい温度になる。ページをめくる。数日読んでいた本なのに、ちっとも内容が頭に入っていなくて行ったり来たりする。
そんな時間さえ、期待に満ちてしあわせな気持ちになる。
「凪」
ぽん、と本に見入っていた頭に手を置かれる。あんなに待っていた人が目の前に現れたのに、声をかけられるまで気がつかなかったなんて自分でも笑える。
「待ってた」
「うん、待たせてごめん」
透くんはいつも通りの笑顔で、彼の瞳の中にわたしが映る。彼の瞳の中のわたしも、やっぱり大人しいだけの女なんだろうか?
「難しい顔して何考えてるのかなって思ってたけど、そんなこと?」
「笑うことないじゃない」
「だってさ」
彼はくくくっとさも楽しそうに笑った。
「ボクの凪は、大人しいと思うけど、かわいくて仕方ないんだけど。ねぇ、夜中に『本当は会いたい』ってメッセージ入れてくる年上の恋人って、すごくかわいいと思うんだけど」
下を向いて真っ赤になって反省する。子供っぽいことをしたのに違いはない。
そんなわたしの両頬を挟んで、向かい合わせになる。彼はわたしにこう言った。
「なんでも言って。なんでも話して。なんでもはできないけど、できることはするから。凪のことならボクは例えば多少無理なことでもしてみたい」
「……こんなところでこんなことしたら、見えちゃうよ」
「いいよ、別に。ここは大学の近くでもないし、塾の生徒ももう帰ったし。店内の人は自分のことしか見えてないよ」
軽く、ほんの少し、キスをする。それは今日一日会えなかった分の挨拶のように。
「凪が会いたいと思うときは、ボクもそう思ってるんだよ。……覚えた?」
「うん……呼び捨てにしてもいい?」
透くんは少し驚いた顔をして、軽く息を吸った。
「呼んでくれるの?」
「うん。『透』……すごく似合ってていい名前だよね」
わたしは唇をもう一度開いて、言葉にした。
「透、今日、会ってくれてありがとう。だいすき」
彼の目が最後は上手く見られなかった。もうわたしたちに「年齢」という生垣はいらない。だから、名前で呼びたかった。
「凪、今すぐ抱きしめたい」
「抱きしめられたいけど……それは、別の場所で」
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