第54話 「そばにいるよ」
「透くん」を『透』と呼ぶようになって恥ずかしくなったのは、やはりわたしだった。なんであんなこと、言っちゃったんだろうと思うと、ため息が出た。
でも、わたしの中ではもう、「透くん」なんて子供っぽい呼び方では納まりきれない存在に彼はなっていたから。いつも困ったわたしを助けてくれる彼に、「くん」はいらない気がした……。
「凪、名前で呼んで」
「透」
「もう一度」
「透」
「自分の名前がこんなにいいものだと思わなかったよ」
「バカ」
わたしが思ったような大人ではないと言わんばかりに、彼は名前に固執した。まぁ、いいんだけど。
「凪、母さん、買い物に行くけど柿崎くん、ご飯食べてく?」
「お母さん、ボク、お昼、いただいてもいいですか? 食べ損なっちゃって」
「じゃあ、早く帰ってくるわね」
扉の閉まる音がすると、彼はゆっくりとわたしに口づけた。唇を丹念に確かめられ、その滑らかに動く舌先でわたしの口の中を好きなように行き来する。そうして体を離すと、もう一度、今度は小さく口づけた。
「透……」
陶酔してたに違いない顔で思わず口に出してしまい、自分でも困惑する。
「凪、もう1回言って」
彼の胸の中で、求められる。
「……透」
「凪、世界でいちばんかわいいよ」
そのまま彼の腕の中で、母が帰るのをふたりで待っていた。
「お母さん、たくさん食べてもいいの?」
「透くんが食べると思ってたくさん作ったんだもの、好きなだけ食べて」
山ほどのおいなりさんが、テーブルには用意されていた。呆気に取られる……。
しかもわざわざ中身が3種類くらいあって、五目ごはんの入ったものや、漬け物の入ったものなど気合いが入っている。
「凪はねぇ」
「あ、お母さん、ちょっとここで狡い!」
「聞きたいなぁ」
「そうでしょう、透くん」
ふたりはにやにやしている。わたしだけが孤立無援だ。……言われたくないのになぁ。
「凪はねぇ、実はお勉強はすごくできたのにお料理、苦手なのよね」
母が軽やかに笑う。
「確かに、凪の作ったもの、一度しか食べたことない。これだけつき合ってても」
こういうときは外を見ているしかないので、おいなりさんを頬張りながら窓の外を見ていた。
「でもね、凪はがんばり屋だからねぇ。がんばって近い国立大学に行ってくれたのよ。私立のもっといいところにも行けるって言われてたのに」
「お母さん、それは言わなくていいよ。わたし、別に何の後悔もないよ」
母の方を振り向くと、いつもと同じ笑顔でにこにこ微笑んでいて、その表情に胸が痛くなる。それを言われてしまうと、がんばったことが無駄になる気がして悲しくなる。お母さんとわたしのために、全部、がんばってきたから。
「お母さん、ボクは凪ががんばってることは知ってるから大丈夫。無理し過ぎないか心配になるくらい。ボクはまだ自分のことが精一杯だから、何の約束もしちゃいけないと思うけど、でもこれからも大切にさせて下さい」
彼は頭を深々と下げた。
「透くんはもう、うちの子と同じよ。凪のお婿さんみたいなものだと思ってるから、つき合ってる間はやさしくしてあげて」
「ボクは凪が嫌だって言っても離れない自信、あるから」
「あら、透くんが凪より条件のいい……例えば年が近くてかわいい子と知り合うかもしれないでしょう?」
……言われたくないなぁ、と思う。年上ってだけでもう、ひとつハンデがあるのに、透と年が近くて性格もいい子だったら、わたしは絶対に引いてしまうもの。
どうして、同い年に生まれなかったのかなぁという思いと、同い年なら他の子に埋もれてて近づけなかったかもしれないという思い。
「お母さん、ごちそうさま! おいなりさん、すっごく美味しかった。うち、親が共働きだからこういうの出ないの。凪にも教えてあげてね」
「お口に合ってよかった。じゃあまた作ってあげるわ」
「うん、ありがとうございます。じゃあ凪と出かけてきます」
引きずるようにして、彼に連れ出される。なんだか気分が最悪だ。近所の小さい公園のベンチに腰掛けてうなだれる。
「どれを気にしてるの?」
彼がわたしの顔をのぞき込む。最悪の顔をしてるところを見られたくない。冬ならよかったのに、夏服では隠れることができない。
「全部。どれもこれも」
「ふくれることないじゃん。あ、手料理は食べてみたいなぁと思うけど」
朗らかに歌うように彼はそう言った。言いたいことが頭の中できちんと並ばない。上手に組合わない。
「……いつか、もっと素敵な彼女が現れて、どこかに行っちゃったらやだ」
そんなことを言う自分がやだ。いつもならそんなワガママを言うこともなかったのに。誰とつき合ってもそんなこと、なかったのに。むしろ、言えなかった。
「……先のことはわかんないけど。今を繋げていけば未来に繋がるんじゃないの? ボクだっていつも、凪の周りの人に凪が惹かれたらどうしようって思ってるよ、つき合ってからずっと」
「そんなこと言わないで。ただ、いつもみたいに『そばにいるよ』って言って」
「……『そばにいるよ』。凪が嫌がっても離れない」
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