第52話 全部知りたい
電車は定刻通り駅に着いた。なんの面白味もなく、まさに定刻通り。
夢のような時間が通り過ぎて去っていく気がしながら、電車が行ってしまうのを眺めていた。そのわたしを、透くんが眺めていた。
「凪」
「ん?」
「疲れちゃったんじゃないの? ぼんやりしてさ」
「ああ、それはね……」
言い難い。乙女チックな感慨を彼に伝えるのは恥ずかしい。
「今日が楽しかったの、すごく。だから、その楽しさが電車に乗ったまま行ってしまった気がして」
「……凪はやっぱり文学部だけあって、比喩が上手いね」
「そういうことじゃなくて!」
透くんは余裕の笑いを見せた。そしてわたしが振り上げた拳の手首を軽く握った。
「冗談だよ、冗談」
「あのさぁ……言わない方がいいか迷ったんだけど」
「ん?」
彼の、わたしの手首を握る腕の力が抜ける。日の落ちる時間が遅くなって、まだ空に焦げた日没前の夕焼けが見える。
「凪は本当はすごくストレスだったかもしれないけど、今日の凪の
駐輪場の柵に寄りかかって、一番星が今にも見えそうな空を見上げる。
「本当は……自分にそんな大胆なことができるかなぁって、すごく迷って。でも、透くんが大学でどんなふうにしてるのかな、とか、透くんのいない休みの日はつまらないな、とか思って」
「ボクのこと思ってわざわざ来たの?」
「他に理由なんてあるわけないじゃない」
わたしは苦笑した。
「よかったら、また大学で会おう」
「たまには行くよってさっき言ったじゃない?」
「そうじゃなくて」
ふわっと抱きしめられる。電車が行ってしまった後の駅前は人通りが少ない。
「凪が、一歩を踏み出せたきっかけになれたことがうれしいんだ。もっと、少しずつでいいから、踏み出していかない?」
「……よくわかんない」
「わからなくてもいいよ。ボクが凪の手を引いていくから」
駐輪場から自転車を出そうとスタンドを上げた。いつも通りの仕草だった。
「ねぇ、凪。その格好で自転車に乗るの?」
「うん。来る時もそうしたけど」
彼はわたしより大きな手のひらで口元を覆って、幾分、赤くなっているように見えた。
「スカートだよ?」
「スカートだよ。前に出かけた時もそうだったじゃない」
「今日のスカートは少し短いじゃん」
「そうかなぁ、膝下丈だし、学校で教員のとき、注意されたこともないよ」
「とにかく今日はダメ。送るから、引いて帰ろう」
「まぁ、いいけど」
何となく黙々と帰る。ときどき車のヘッドライトがわたしたちを照らして脇を通り過ぎるくらいで、街は夜に浸されている。
「ねぇ」
「ん?」
「……聞いたらまずいのかな、と思って今まで聞かなかったんだけど……」
「何? 今までつき合った子は凪だけ。告白は……3人くらいかな? もらったチョコの数は覚えてない。そうそう、初めての相手は凪」
蹴飛ばしてやりたいと思ったけれど、自転車が邪魔でそれができない。
「そうじゃなくて、透くんのおうちはどこ? どんなおうち? どんなご家族なの?」
彼は少し考えていた。とても一言では表せない、という顔をした。
そして、下を向いて話し始めた。
「うちは凪の家の反対側。駅からすぐだよ。だから凪から連絡があってもいつもすぐに行けるんだよ」
半年を有にすぎて、初めて知った。いつも送られる側だったので、ちっとも知らなかったから。彼に興味を持たないわたしを、彼は少し幻滅したかもしれない。
「家族は……」
話が途切れがちになって、彼はそっぽを向いた。
「家族は、両親と兄貴がいる。兄貴はT大学の院生で、両親は教師だよ。まぁ、そんな感じ……」
「そうなんだ」
そうなんだ、そんなつまらない言葉しか出てこなかった。両親が教師じゃ、わたしに言いにくかっただろうな、と思った。それから、優秀なお兄さん、か……。T大でしかも院生。将来を嘱望されているに違いない。
透くんには、家が窮屈なのかもしれない。
「凪は?」
「よく知ってるじゃない。うちは、お母さんとわたし、ふたりよ。シンプルでしょう? お父さんはわたしが高校生のときに病気で亡くなったわ。入院とかはしなくて、突然だったから、死に目には会えなかったけど……」
目の縁にうっすら涙がにじむのを感じた。
わたしはまだ、父の死を上手く受け止められない。
「今は仏壇にいるのよ」
「やっぱりあの遺影がお父さんなんだね」
「そうなの。だから、わたしをお嫁にもらいに来ても透くんは殴られたりしないの」
お互いに目が合って、くすりと笑った。
「……まだ知らないことがあるんだね」
「それはそうよ。20年そこそこ生きて、そのうちほんの1年に満たない期間一緒にいただけだもの……ちょっとサバ読んだけど」
「全部知りたい」
「それは、神様にしかできないかも。でももしできるなら……全部教えて、わたしの全部をあげたい」
気がつけば一番星が、月と連れ添って暮れていく空に浮かんでいた。
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