第37話 追いつきたい

「待ってた」

 仕事が終わって着替えて店を出ると、文庫本を開いて小田くんが店の前に立っていた。

「え、なんで」

「ほら、それ見てこのくらいの時間かなぁと思って」

 彼の指さしたところに、求人の紙が貼ってある。勤務時間は9時から17時と書いてある。

「……なるほど」


「相澤さん、どんなに誘っても、小さいことでもOKしてくれないから。今日は休みだったから、思い切って来てみたんだよ」

「ごめんなさい、そろそろ彼が迎えに来てくれるから」

「そうなんだ。なんかオレ、空回りだね。相澤さんの彼氏の顔でも拝んでいくかな」


「拝むなんて。なんか趣味悪い」

「恋敵だからね」

「冗談ばっかり言って」

「そんなことないよ、相澤さんに近づきたくて高校のとき、たくさん本をがんばって読んだよ。川端、谷崎、ヘッセ、ヘミングウェイ……。おかげで今は読書が趣味。いつも相澤さんは本にカバーかけてるから、何読んでるのか当てるのが大変でさ」

 ああ、確かに思い出してみれば、何度か彼に「何を読んでるの?」と聞かれた覚えがあった。

「そんなこと、全然知らなかった……」


「凪」

「透くん、今日は遅かったね」

 透くんはわたしの目をじっと見たような気がした。

「ごめん、家を出るの遅れて。同級生、でしたよね?」

「そう、高校の同級生だったんだ。本を買いにきてばったり会って」

 小田くんは透くんに見えるように、うちの書店のブックカバーのかかった本を少し上に掲げた。


「今度、よければ一緒にお茶しないかな? 相澤さんはキミがいるから誘っても断られちゃうんだよ。3人ならどう?」

「凪が断るなら、ボクもノーだし。すみません」


 そのときお店の中からそっと櫻井さんが現れた。

「お、透くん、やっと来たね。凪ちゃん、ずっと待ってたんだよ」

「ああ、ちょっと遅くなって」

「凪ちゃん、透くん待ってたんでしょう? お疲れ様。営業妨害してないでまた明日」

 それだけ言うと店内に忙しそうに戻ってしまった。


「じゃあ、彼と帰るから」

 小田くんは苦笑して手を軽く振った。


 透くんは何も言わなくて、わたしの手をぎゅっと強く繋いで、長いエスカレーターを下りながら、

「なんか、嫌だな」

「話してただけだよ? 誘われても断ってるし」

「凪、無神経」

と口をきかなくなった。


「ねぇ、透くん、ちょっと待って」

 彼はわたしを置いて、いつものカフェも通り過ぎてどんどん先に行ってしまう。足の速い彼に追いつけない。

「透くん!」

彼はふり向いていつものようにそっと手を差し出してくれた。わたしは安堵して彼の手に自分を委ねる。

「少しは追いかけてばかりのボクの気持ち、わかってくれた? ボクはいつだって年の差の分、凪に追いつこうと思って精一杯なんだよ」


「ごめん……」

 道行く人たちが、立ち止まるわたしたちを避けて歩いていく。

 この通りを年の差を気にせずに歩けるようになったのはいつだったんだろう?

 わたしはのんきに、そんなことを気にしなくなった。でも透くんは、今も年の差に追われている。まだ、わたしたちの間にあるが埋まらない。


「……寒くない? 今日は風が冷たいよ」

 彼が手を繋いで暖めてくれる。

「わたし……年の差とか、考えなくなってて……」

 人前なのを気にして、彼はわたしの肩をそっと抱いた。彼とわたしの距離がグッと近づく。

「あの人、元カレとかじゃない?」

「ただの同窓生だよ」

「……ボクは凪だけだから。凪しか見えないから」


 自転車を引いて、うちの近くに新しくできたカフェに「試してみようか」と言って入ってみた。小さくて、席数も少ないカフェだった。アンニュイな洋楽が雨の日のように流れていた。


「……」

 居心地の悪い沈黙。


「誘われてるの?」

「うん……少しね。ほんとに小さなことばかり」

「LINE教えたんでしょ? 通知オフにしておけば、同窓会の連絡とかは大丈夫じゃん」

「そうだね、そうする」


 落ち着くと、彼の嫉妬が心地よく思えた。

 裏返して「すきだ」って言われ続けているような気になる。

 ふたりしてカップを目の前に置いて黙っていると、本当に雨が降ってきた。


「一雨ごとに、春になるのよね」

「え?」

「雨が降るたびに少しずつ、暖かくなるんだって。透くんも大学生になるね」

 彼は雨に濡れるアスファルトをじっと見ているようだった。音楽と雨音が心の中でシンクロして、妙な居心地の良さを感じ始める。


「大学生になったらどれくらい会えるかわからないけど……。今より会えなくなっても、このままボクの彼女でいてくれる?」

 わたしはそっと息を飲んだ。それはわたしのほうが気にしていたことだったから。

 もう少し前なら、彼がわたしを忘れていっても多少の胸の痛みでと割り切ることができたと思う。でも今は……。


「やだ、透くん。何言ってるの……」

 前髪を直すふりをして、目線を外す。ガラスに彼の横顔がぼんやり映っている。

「……大学に行くとたくさん出会いが待ってるよ」

「どういう意味?」

 ガラスの中の彼から本物の彼に目を移す。

「それでもわたしを選んでくれるのかなぁって」


「……今でもボクのほうが一方的に凪をすきなのかと思ってたんだけど」

 彼は赤くなって横を向いた。

「なんかうれしい。じゃあ、これからも……彼女でいてくれる、かな?」

「透くんのバカ。『すき』だって何回も言わせないでよ」

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