第32話 ときめいた思い出
あんなことがあったのは一度きりで……あれ以来、透くんが微妙に今までと違う気がする。
本試験までもう少し。
緊張してるのかもしれない。
「お昼、食べに行かない?」
わたしは何の連絡も入れずに、図書館にいる透くんを誘いに行った。案の定、彼は驚いて、
「凪から誘ってくるなんて珍しいから」
と言って真っ赤になっていた。ちょっとだけ、悪いことをしちゃったかな……と思った。
わたしたちは公園をぐるっと散歩して遠回りしながら、いつものファミレスに向かった。
「こんなに寒いのに散歩してる人なんて、ほとんどいないよね」
手を、いつものように繋いで歩いている透くんに話しかける。
「ああ、うん、そうだよね、奇特だよ」
「透くん、どうかした?」
「え? 何が?」
「何ってわけじゃないけど……なんか変」
彼はシュンとした顔をして、下を向いた。
「……ひょっとして、試験がプレッシャー?」
「いや、そうじゃないよ」
「じゃあ何が」と言おうとして、腕を引かれる。彼の腕の中にすっぽり埋まってしまって、どきどきする。人から見えない奥まったところだったので、キスされるかな、と思った。
緊張してしばらく待っていても、キスされることはなかった。彼はわたしをぎゅっと抱いて、「ごめん」と言って放した。
やっぱりわたしみたいに年上の女なんて、飽きてしまったのかもしれない、という考えが頭の中をよぎって、どんなにがんばっても消えない。
「行こうか」
と言われて手を繋いでも……透くんにもらったクリームですっかり滑らかになったのに、彼は振り向かずにお店に向かった。
食後に彼はカフェラテ、わたしはカフェオレを飲んでいた。道行く人たちの目に映る自分たちが、年の差のあるおかしなふたりに見えないかとやっと気にならなくなってきたのに……。
「あの……」
「ん?」
「あのね」
カップを持ったままうつむいた。ファミレスはいつも喧騒に満ちている。
「わたしのこと、嫌になっちゃったかなーって思って。嫌になったらはっきり言ってね」
透くんは大きくため息をついた。
「なんでそんなこと思うのかな? ……ボクが凪のこと、頭から離れなくて悩んでる時に」
「え?」
ガラスに映った彼の顔は、明らかに照れていた。お昼休みを終えた人たちが、交差点を次々と渡って行く。
「今日もずっと、凪のこと、離れてても感じてた。いつもみたいに隣にいてくれる感じ」
「……邪魔だったんじゃない?」
「そうだね、大問を解こうと思っても、なかなか凪が離れなくて。こんなの初めてだよ。自分でも集中力のある方だと思ってたから」
「だから、凪にあまり触れないように、衝動に振り回されないようにしてたんだけど、今日みたいにかわいいと無理。今ここでキスしたいくらい」
「それは……」
「うん、それなら午後は隣にいてよ。妄想膨らませてるくらいなら、いっそ隣にいてくれた方がうれしい」
「うん……。うちに、来る?」
彼はわたしをじっと見て、目をそらした。
「もれなく押し倒してもいいならね」
そう言われてはわたしも何も言えない。席がほとんど空いてない図書館で、透くんと隣同士になれる席を探してわたしは本を読む。どうせだから、続けて話題作を読む。
「凪、ここちょっと」
たまに声をかけられて英語を教える。それ以外は口をきかないで彼は黙々と勉強した。
読書に飽きたわたしは雑誌コーナーの座り心地のいい椅子に座って、パラパラと雑誌をめくっていた。どうでもいいファッション誌なんかを。
「相澤さん?」
目を上げると、そこにはいつか見たことのある人がいた。
「えーと、もしかして小田くん?」
「高校卒業して以来だなぁ」
そのまま小田くんはわたしの隣にさっと座り、話し始めた。
「相澤さんはひょっとして、もう結婚しちゃった人?」
「ううん。そんなんじゃないよ、どうして?」
「平日に図書館にいたから」
「小田くんも一緒じゃない」
「オレはサービス業。車の営業やってんの。だから平日休みなんだよ」
「あ、そうなのね」
なんとなく居心地が悪くて、さっきまで快適だった椅子から立ち上がりたくなる。彼は悪い人じゃないのはわかってるんだけど。
「今はじゃあ、何してるの?」
「あ、そこのビルの書店でアルバイトしてるのよ」
「バイト? 相澤さん、いい大学行ってるのにもったいないよ。とりあえず連絡先、交換しない?
同窓会情報とか回せるしさ 」
「うん、じゃあ」
LINEの交換をする。同窓生同士で交換するのはよくあることだから、気にしなくてもいいと思った。
「もし働きたくなったら言って? オレの会社の事務とか、取引先とかあると思うんだ。それから、婚活するときも。……オレ、相澤さんに高校生のときから憧れてたから」
「え? そんなの何もなかったじゃない?」
「んー、相澤さんにはなかったかもしれないけど、オレにはときめいちゃった思い出がたくさんあるんだよ」
「……」
赤面して恥ずかしくなる。
下を向いて黙ってることしかできなかった。25にもなって、高校生のころと何一つ変わってないことを実感した。
「そういうとこ。かわいいなって思ってた。よかったらまた会って。連絡する。大丈夫、ごり押しはしないよ」
そう言い残して小田くんは数冊の本を抱えて図書館を出ていった。
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