第16話 好きになる理由

 ある日レジを打っていると、知った顔の女の子が参考書を買いに来た。ああ、これはS社のいちばん難しい……教師の時のくせでこの前のグレードのはやったのかな、と思ったけど、今のわたしには関係ないと袋に入れて手渡す。


 レジは空いていた。


「あの、今日は時間ありますか?」

 時計を見るとちょうど17時に差し掛かるところだった。この後、透くんは予備校なので今日は会わない。

「17時上がりなんだけど……」

「大丈夫です。下のカフェで待ってます」


 この間はよく見なかったけど、眼鏡をかけて、髪はストレートで前髪から分けていた真面目そうな女の子だった。





「何、凪ちゃん、一騎打ちするの?」

「聞いてたんですか?」

「いや、俺は一応、職場責任者だからね。若いからって遠慮しちゃダメだよ」

 櫻井さんは相変わらず優しい。


 仕事を上がってカフェに行くと、奥まった席で彼女はコーヒーを飲んでいた。さっき買った参考書に、きっちりアンダーラインを引いて、要点のメモを作っているようだった。


「お待たせしてごめんなさいね」

「いえ、こちらこそ。……わたし、透くんと同じ高校のみさきまなみと言います。突然すみません」


「わたしは相澤凪あいざわ なぎ。知ってると思うけど、上の書店で働いてるの」


 ……。

 沈黙が重くなり、コーヒーを買いに行った。

「相澤さん、なに、買ったんですか?」

「ソイラテ。脂肪が気になる年頃だから」

 ふふふ、と教師のときのようにちょっと困った顔をして笑う。


「十分、細いじゃないですか?」

「年だから、1度太るとなかなか落ちないのよ」

 岬さんはわたしを注意深く見た。


「年……わたし聞いたんです。あなたのいた高校に友だちがいて。教師2年目で辞めちゃったんですよね? どうしてですか?」

「それは……答えなくちゃいけないこと?」


 彼女は口を固く結んでうつむいた。

「2年目で辞めたのは本当よ。でも理由は……プライベートなことだから、答えたくないわ」

「……ごめんなさい、初対面なのに」




 わたしは冷めかけてきたコーヒーに手をつけた。

「聞きたかったのはそのこと? 岬さんも今日は透くんと同じく予備校だったんじゃないの?」

 できるだけ慎重に、相手の立場を重んじるように話しかける。


「透には……聞かれたくないし。こうやって相澤さんに会ってることも知られたくない」

「そうね……。予備校をサボるのは感心できないけど、女として気持ちはわかるわ。わたしもサボると思う」


「あの……相澤さん、すごく生徒に人気があったって。もったいなくないですか? あ、余計なことならすみません」

 余計といえば余計だった。

 わたしはもう、例え他の学校でもあの環境に身を置けないだろう。


「いろいろ、あるんだぁ。楽しかったけど、それだけじゃないの」

 窓の外にはたくさんの高校生が歩いていた。それぞれの制服に身を包んで、楽しげに笑っている。わたしもあの中に入ってからかわれたり、からかったりしていた。


「……すみませんでした。もう、前の学校のことは聞きません。聞いていた通りの人だってわかったし、確かに辞めた理由はプライベートだと思うし。それに……」


 それに?

「透が好きになる理由が、わかるかも。ものを見る視点が一緒っていうか……わたしには真似ができないってよくわかりました。失礼します」


 彼女は一息にそう言うと、丁寧にお辞儀をして帰って行った。今からまだ予備校に行くのかもしれない。透くんのいる……。




 気が抜けて文庫本をぺらぺらと実質、読むわけでもなくめくっていた。2杯目のソイラテを飲んでいると、透くんが現れた。手には飲み物のカップを持っていた。


「はい、ココア。クリーム増しておいた」

「あ、予備校は?」

「何時だと思ってたの? 終わったよ」

 ああ、そんな時間なのかと思った。


 飲みかけのソイラテは、彼が飲んでしまった。ぬるい、と笑った。

「なんか難しい顔してるからさ、甘いものが欲しいんじゃないかと思って」

「ありがとう……気にかけてくれて」


「凪さんは本当の気持ちはなかなか喋らないから。気持ちを読まないと」

 彼はいつものように、にっこり笑った。


 ココアは甘くて、彼の言葉より甘くて、格好つけてソイラテを飲んでいるより、ずっとわたしに似つかわしく思えた。

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