第17話 忘れられない
予備校のない日だったので、わたしの仕事が終わるまで透くんは参考書コーナーで目ぼしい本を探していた。レジを打って、問い合わせの本の検索をする。
「お待たせ」
透くんが目を上げる瞬間の、小さな喜びが垣間見える瞬間がすきだ。わたしだって、同じくらいこの時間を待っていたから。
「凪さん、終わったの?」
「うん、今日は終わり。帰り支度してくるね」
書店の名前の入ったエプロンを外し、髪をロッカーについた鏡で直す。お店で履いていたスポーツシューズをローヒールに履き替える。
「なんだ、凪ちゃん、今日はデートの日か。大変だな、受験生は。遊ぶにも日を選ぶだろう?」
櫻井さんは通りがかりにいつもわたしをからかっていく。
店を出ると、まだ彼は参考書を熱心に睨んでいた。
「お待たせ」
「あ、凪さん、びっくりした」
「問題に没頭しすぎ」
彼と同じ高校の制服を着た女の子たちが、彼とわたしを見比べて何かしゃべっている。
もう学校をやめて半年すぎてしまえば、教師気分もすっかり消える。残るのは年上だということだけ。
とは言え、遊んでばかりいたわけではなくて、図書館が遅くまでやってる日は……会わない約束の水曜日だったけれど、わたしが彼の勉強につき合って本当に稀に勉強を教えた。教えることがなかったから。
彼は思っていたより成績優秀で、きっと、わたしより上の大学に入るんだろうな、と思わせた。
「大学に行くのに一人暮らしするの?」
とわたしは聞くことを保留していた。それはもちろん、彼がわたしから遠ざかることを知るのが怖かったから。
「あんた、高校生とつき合ってるの?」
ある日、母に聞かれた。
「うん。でも、受験生だから……すぐに会わなくなるわよ」
「元高校教師が高校生とつき合うってどうかと思うんだけど」
わたしもどうかと思う。でも、今ならわたしを「抱きたい」と言った彼の言葉がわかる。彼は、急速に大人になって、横顔が出会った頃とはまるで違う……。わたしたちはまだ、手を繋ぐまでの仲だった。
「どうかしたの?」
「ううん、何も」
仕事のあと、いつものカフェでお茶をした。すっかりホットしか飲まなくなっていた。
「模試、成績よかったよ」
「よかったじゃない。わたしが邪魔しちゃったらいけないって、いつも思ってるから」
わたしはスコーンを食べながら軽く笑った。
「凪さんに認められる男になりたいから」
「……認めてなければ『好き』になってないよ」
最近は隣り合って座ることも増えた。そういうときは手を繋ぐ。彼の手は何かを話したさそうにいつでもしている。でも、そこに潜む気持ちを聞いてあげるわけにはいかない……。
ふたりで自転車を駐輪場に取りに行った。寒さが増して今日の彼はブレザーも着ていた。わたしも軽めのコートを引っ掛けていた。
「今度……よかったら、マフラーお揃いにしてもいいかな? 子どもっぽい発想かな?」
「うれしい、一緒に選ぼう」
自転車のスタンドを一度上げた彼が、スタンドを下ろしてわたしのところにやってきた。
周りはすっかり暗くなり、丸い形の街灯がひとつ、寂しげに光っていた。
「休みに、一緒……」
「キスくらい、もういいでしょう? 夏の終わりから、けっこう経ったと思うんだけど」
いきなり抱きすくめられる。耳元から彼の声が聞こえてきた。
ああ、こういうときになんて言ったものかしら、とまず考えた。そしてそれは考えるものではなくて、勝手に体が動いた。
彼の、見慣れてよく知っているはずの背中に、おずおずと腕を回した。初めてだった。触れてみるとそれは、わたしの思っていたものとはまるで異質だった。他の男の子たちとも。
「ごめん。想像だけで爆発しちゃいそうで……」
「わたしこそ……キスもしないんじゃ嫌いになる?」
「また隙をつくから。……でも凪さん、ボクはこのままあなたを襲いかねないから、ごめん、腕、解いて……」
背中からするりと腕を解く。残念な気分になる。自分の気持ちに歯止めがかからなくなる。
わたしは彼の首に腕を回して、唇が触れるだけのキスをした。
「わたしだって、キスくらいしてほしいって、ずっと……。そんなこと思ってたら嫌いになる?」
「……嫌いじゃない」
透くんが、「好きだよ」と言った。
『凪さんの唇が忘れられなくて困ってるんだけど。どうやって責任、取ってくれるの? あんなに唇が柔らかいなんて聞いてなかったよ』
『そんなことをすると勉強が手につかなくなるからって、以前、教えたように思うな。それでも、勉強して? 追い込みじゃない。キスはいつでもできるんだから』
『じゃあ、会う度にしてもいい? 変な妄想に襲われないように』
わたしは画面にため息を深くついた。
この同じ時期につき合っている高校生たちも、同じことで悩んでいるんだろうな、と思う。わたしは高校生並だ。
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