第12話 経験値

「凪さん」


「透くん……」


 透くんの顔を見て、体が脱力する。

 まるで魔法のように彼は颯爽と現れた。

「ごめん、話を聞いてしまったんだけど、……ボクと凪さんはおつき合いしているんです」


 櫻井さんは黙っていた。あらかた食べてしまったランチを置いて、伝票を持って出ていってしまった。


「ごめん、わたし、嘘を……どうやって誤魔化そうかって……」

「仕方ないよ。凪さんがそこから踏み込めないのは、なんとなくわかるよ。それよりボクのほうが言ってしまったけど大丈夫?」


 透くんはわたしの隣に座って、今日のブレンドを頼んだ。

「わからない。言いふらしたりする人じゃないけど……」


 透くんとわたしの仲がわかってしまったら、世界はどんなふうに変わってしまうのだろう?

7つも年下の男の子とつき合うわたしを、世間は非難するだろうか? むかしのわたしなら……したかもしれない。


「それよりどうして」

「ここにいるかって?」

 わたしは黙って答えを待った。


「簡単だよ、凪さんの職場に行ったけどいないのを確かめて、いつものとこと、ファミレスと、ここを回ったとこ。お昼だろうと思って」


「約束……守ってないじゃない」

「困ってたでしょう? 勉強はしてるよ。今日は朝から図書館。閉館は5時だから、一緒だ。奇遇だね」

「……賢い子って、困ったものね」

 彼はプレートを注文して、さっくりと食べてしまった。


「さて、苦手な化学やるかなー」

 伸びをする。彼の伸びは、若木の伸びていくそれに似ている。

「迎えに行くと 、また何か言われたら凪さんがかわいそうだから、図書館のところで大人しく待ってるから」



 休憩が終わり、おっかなびっくり職場に戻る。

 みんな、もう話を聞いたかしら?

「あの子、高校生とつき合ってるのよ」って指をさされるかしら?


「高校生、帰ったの?」

「いえ、図書館で勉強してて……」

 話しにくい。わたし自身、頭の中でまだまとまっていないことなのに、とても上手く話せない。


「まさかあの子とつき合ってるとは思わなかったよ。高校生で、物足りなくないの?」

「? 何がですか?」

「いろいろ経験少ないでしょう?」


「お昼の分、払います。ごめんなさい、仕事に戻ります」

 ぺこり、とお辞儀をする。


 経験なんて増えていくばかりだ。いらない経験でも、キャッシュデータのように溜まっていく。それが大人になるということなのか、わたしにはよくわからない。


 わたしの生徒たちはわたしの知らないところで、いろんな経験値を上げていたんだろう。良くも悪くも。


「凪ちゃーん」と、中途半端なわたしを呼んで慕ってくれたあの子たち。わたしが捨ててしまった子たち。



「透くん、待たせてごめんなさい」

 透くんは図書館の外の柱にもたれかかって本を読んでいた。まだそれほど寒い季節ではなかったけれど、夕方はずいぶん涼しい。


「凪さん、大丈夫だった?」

「うん。……まあ、言われたけど」


 わたしは困り顔に、彼は難しい顔になった。

「何を言われたの?」

「え? 高校生とつき合ってるのかと……」


 下を向いて答えた。この頃、日が翳るのが早い。気の早い街灯がぱらぱらと明かりを灯す。

「もっと何か言われたんだ?」

「それは……」


「あの人、凪さんのことが好きなんだよ」

「そう? そんなことないと、思うけど」

 透くんはちょっとイライラしているようだった。バスが走ってくるヘッドライトをきつく見ていた。


「ボクは見てたからわかるよ」

 彼の手がゆっくり伸びて、指先が揺れているのが見えた。小さく震えている。そっと、わたしの頬に触れた。


「やっと見つけたのに、凪さんを誰かに盗られるわけにはいかないよ」

 そういうときではないのに、語気の荒さではなくて、頬に触れている指先に。そっと、わたしの手を重ねる。


「わたしはあなたが思うような女じゃないのよ、たぶん」


「それってどんなの? ボクが望むのは今のあなただけど。今以上でも、以下でもないよ」

 櫻井さん、あなたの言う通りかも。……ここでキスしたくても、今、高校生の彼にとてもできない。


「キスしても、いい?」

「ダメよ……まだ、無理。ほら、つき合い始めて1週間にならないよ」


 嘘ばっかり。自分の気持ちも棚上げなのに……。

「凪さんていちいち先生っぽいと思ってたけど、それを言われると確かにそうだね。……焦ってごめん、気をつける」


ホッとする自分と、残念に思う自分がいて。だけどたぶん、これが正しい。

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