第2話 「先生」だと思わない

「あなたに声をかけたかったんだ」

 本に添えられた手は細くて長く、男の子にしては少し色白だった。


「どうして?」

「さあ……あなただけが、あのとき何故か見えたから」

「あの日は学校で言われて、赤いTシャツなんか着てたから」

「……」


 彼の手がするりとほんの少し動いて、コーヒーに口をつけられないわたしの行き場のない手を、遠慮がちに捕まえた。

 わたしの手は驚いてビクッとしたので、彼の手も一瞬、戸惑ったようだったけど……決意を固めたかのようにわたしの手を包むように握った。


「ボクと、つき合ってほしいなんて急に言わないから、こんな風にたまに会ってもらえませんか?」

「こんな風に?」

「そう、とりあえず、お互いのことがよくわかるために。あ、ここが嫌なら別の場所でもいいです」


 生徒たちと過ごしていたときのように、わたしは「仕方ないなぁ」という微笑を浮かべた。職業病だろう。


「……じゃあ、ここで。前の職場の生徒も通るかもしれないけど、もう先生じゃないから関係ないし」

「本当に? じゃあ、連絡先を交換しても?」

「構わないわ。何かあったら……」


 彼はカバンの底に行ってしまったらしいスマホを探し始めた。わたしはようやく冷めてきたソイラテに口をつけた。

「あった!」


 LINEの交換をして、よかったら電話番号を教えてもらえないかと言われて、一瞬、ひるむ。

「機種変したとき、電話帳はクラウドに残ってたんだけどLINE消えちゃったことあって」

「そうなんだ。……じゃあ」


 最近の子はLINEしか交換しないで「繋がって」しまうので、新鮮であり、不安だった。彼の名前は「透」くん、らしいとわかる。


「凪さんか……うん、雰囲気に合うね。凪……海の名前」

「海なんか行かないのよ」

「夕凪、海が凪ぐのは穏やかさを表現してるんでしょう?」

「そうね……そうだね」


 文庫本の間に見えたのは、高校生の頃、わたしもさんざん悩まされた数学の「1日1問」プリントだった。毎朝1枚の小さな紙に、たった1問の難関私立大の数学の入試問題が書かれている。


 白い指定シャツの彼が眩しく見えたけれど……学ランじゃなくてよかったと思った。彼がもし学ランだったら、その制服の重さに、逃げ出したくなるかもしれなかった。



「凪さん、明日もバイトある?」

「明日は休みなの」

 だから、会えないね。そう思った。


「学校終わるの、今日と同じくらいなんだけど、来られるかな?」

「え? あ、休みなのにここに来るのはちょっと」

「そうだよね、ごめんなさい、気が利かなかった。んー、ちょっとうるさいけど、あそこのファミレスはどうかな。ドリンクバーあるし。凪さん、あそこでも大丈夫?」

「あ、うん。ありがとう」


 ありがとう、気をつかってくれて……。

 わたしが言う立場なのかしら、と言ってからふと思う。


「よかった」

「え?」

「凪さん、今、リラックスした顔になってるから。気持ちが凪いでるでしょう?」


 頬に触れる。いつも通りの感触しかない。

 彼の手がそこに添えられる。

 ……女性に興味がある年頃なんだろう。

「ボクの気持ちは凪ぐことはないなぁ……。帰ってからもあなたを忘れられそうにない。今日のことを」


「そんなことじゃ、あなたの先生に怒られちゃう。ほら、1日1問プリント終わってないじゃない」

「終わった」

「白紙よ?」

「……この問題はもう、他の問題集でやったから、たまたま。ノート、見ますか?」


 彼の目をのぞき込む。

 頭の中の時計の秒針が進む。

「そんな、先生みたいな目で見ないで。ボクがただの高校生なんだって、思い知らせるような」


「高校生でしょう?」

「……凪さんてけっこう意地悪。わかったよ、今はそう思ってて。ボクは凪さんを『先生』だと思わない。ボクは凪さんがボクのことを、『ただの高校生』だと思えないようにするから」

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