「はつ恋」

月波結

第1話 会えなかったかもしれない

 夢はすぐに絶たれてしまった。


 大学時代の青春を多少すり減らして、夢だった教壇についたのに何もできなかった。わたしは非力だった。

 職員の間の摩擦に勝てなかったのだ。

 毎日、鬱々としていたわたしを親は心配し、上司からは休むように勧められた。


 わたしは退職した。



「いらっしゃいませ」

 少しして、地元の書店でアルバイトを始めた。親元にいるとはいえ、何もしないではいられなかったから。

 客はまばらだった。


 と、平積みの本の整理をしていると高校生の男の子と目が合った。記憶になかった。少なくとも、教え子ではない。

 彼はなんらかの参考書を手に、近づいてくる。書籍に対する質問かもしれない。


「ボクはあなたを知ってます」


 一瞬、わけがわからなかった。

 少し大人びた瞳で、彼はわたしにそう言った。地元の、有名高の校章だ。

「あの、どうして……?」

「部活の試合で。来てたでしょう? どうして夏の大会には来なかったんですか?」

「えと……」

 頭が混乱してぐるぐるしてくる。部活の試合で……夏の大会の引率は……。


「仕事、終わるのは何時ですか?」

「今日は17時」

「下のカフェで待ってます。これでも読んで」


 彼はわたし以外の店員にレジを打ってもらって、店を出て行った。……N高の、バドミントン部の子か。腑に落ちる。


 時計を見ると、あと30分でバイトから上がれることがわかった。さっきレジを打っていた櫻井さんが話しかけてくる。

「お疲れ、凪ちゃん」

「お疲れ様です」


 つい、仕事柄、作り笑顔で答えてしまう。わたしの頬にある右側だけの片えくぼが彼の目に見えているだろう。


「凪ちゃん、そこの新刊の補充、だらだらやって上がりなよ。あとは俺がやっておくからいいよ」

「あ、そんなの櫻井さんに悪いですよ」

「いいの、いいの。それで、明日も元気で……あ、明日は休みか」


 櫻井さんは照れ笑いした。この人の屈託のないおおらかなところが、わたしをリラックスさせてくれる。

「お茶でも誘いたいところだけど俺は出だ。残念」

「また時間のある時にでも」

「そうだね、ゆっくり」

 わたしたちは仕事に戻って、17時を迎えた。



 1階にあるカフェは学生たちに人気で、特にテスト前などは席の空きもなく、ガヤガヤとうるさくなる。今日はその時期ではないせいか、それほど混んでいない。


 ソイラテを買って、彼を探す。名前も知らない。姿が見つからず、ただからかわれたのかな、と思う。

 不意に手が上がった。

 彼だ。


「思ったより待ってしまって。ほら、こんなに読んじゃったし」

「ごめんなさい」

「謝る必要は無いですよ。待ってたの、ボクだし」

 彼は本をパタンとテーブルに置くと、にこりと笑った。いまどきの高校生なのに、スマホはテーブルの上に出ていなかった。


「スマホ、しないの?」

「しますよ。でもめんどくさい。特に読書中は未読無視。友だちもそれがわかってるから、特にそれで咎められたりしないし」

「ふぅん。進学校になると、違うものなのね」

「ああ、あなたの高校? あそこはみんな自由にやってるから」


 ホットで頼んでしまったソイラテは、なかなか冷めないで口をつけられずにいた。

 窓の外を、仕事帰りの人や学生たちがそれぞれの目的に向かって歩いていた。帰宅するには、夏のこの時間は早すぎる。


「わたしね……あの学校、やめたの」

 つい、するっと口から出てしまって慌てる。


 何にも関係の無いひとに、元々、聞いて欲しかったのかもしれない。ため息が勝手に出るように、言葉も勝手に出てきた。


「そうなんだ。よかった。ボクはあの試合に応援につき合わされて、それであなたを見たから。もう会えない人かと思ってたけど、運がよかった」

「……わたし?」

「そう、あなた。勉強に行き詰まるといつも思い出したけど、もう会えないってあきらめてた」


 普通に考えても有り得ないことに、高校生にからかわれているのだと思うと顔が赤くなった。中にはそういう生徒がいるんだけど、わたしはなかなかそれに慣れなかった。


「ねぇ、嘘じゃない。疑ってるでしょう? でも考えてみて。嘘だったら、他校の先生を本屋で声かけたりしませんよ」

 彼の手元にあった本は、今月のおすすめにわたしが選んだ本だった。

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