2011年 夏 智治37歳

 蝉がうるさく鳴きわめく神社の森で休日を息子の奨也と虫捕りをしながら遊び、自分が知っているときよりも古びた社に子供のころの記憶が蘇る。

 智治が出会ったのが九十九様と八十八様だと知ってからは、県外の大学に行くまで一度も神社に近づくことはなかった。夢のような体験だが、掴まれた手や握らされた一枚の枯れ葉が紛れもない現実であることを彼に教えた。

 あの頃に比べれば普通に近づくことができるようになっているのは、都会に負わされた心の疲れがまだ癒えておらず何かが鈍くなっているからなのかもしれない。


 曾祖母が持って出たはずの八十八様の枯れ葉は、用水路から引き上げたときにはどこにもなかったそうだ。落ちたときに離してしまったか、水路に流されてしまったのか。また、自分の代わりに連れて行かれたのか、あるいはただ本当に事故だったのか、それら答えの出ない結果に苦しみながら少年時代を過ごした。

 智治は握らされた枯れ葉が恐怖を思い出させるので捨てようとしたが、祖母は曾祖母が大事にしていたように八十八様の御印だから決して粗末に扱ってはいけないと彼を優しく嗜め思い止まらせた。


 奨也は帰り道で仲の良い友達と出くわしたため、そのまま遊びに行ってしまった。智治は虫籠や虫捕り網を抱えて帰途に着いた。夏の日差しに照りつけられ汗が滴るが、都会よりも気温は低く、水田が多いので風が吹けば熱を流していくため心地よかった。

 玄関口に虫捕り網を立て掛け、虫籠を信楽焼きの狸の横へ置く。そして、いつものように手を合わせて帰宅を報告した。


 炎天下の虫捕り思いの外疲れたのか、うたた寝していたようで傾いてきた日差しが智治を起こした。すっかり燃え尽きた蚊取り線香を新しく焚いた。喉が渇いたので麦茶を飲もうと台所に足を運ぶと多恵が夕飯の支度をしている。

「すっかり寝こけてた」

「おおいびきかいてたわよ。夜寝られる?」

 窓を開けていても熱気の籠る調理に、多恵は笑いながら額に汗を浮かべ唐揚げを油へ落としていく。隣のコンロでは湯を泡立てながら鍋の中で素麺が踊る。唐揚げの水分が弾ける音と鍋が煮立つ音が良く聞こえる。

「あの子ちゃんと帰ってくればいいけど」

 独り言のように智治に呟いた。

 素麺も伸びてしまうし息子の大好きな唐揚げが冷めてしまっては、作る側としても美味しい物を食べさせたいという思いからしても心配になる。ただ、奨也も最近ではいいつけを守ってちゃんと夕飯までには帰ってくるようになっていた。

 コップに注いだ麦茶を飲みながら智治も相槌を打つ。

 ぼーっとしていた頭で聞いていた調理の音に、ふと、違和感のようなものが浮かんだ。雑音がなくやけにはっきりと聞こえる。外が静かなのである。

 飲みかけの麦茶を置き、縁側に出て空を確認すると、夕日に紫の雲がかかり始めている。それを見た智治の背中が泡立つ。

 台所に戻って多恵から道で会った奨也の友達の特徴を伝えて苗字を聞くと、連絡網から探して電話をかけた。

「もしもし、息子の奨也がいつもそちらの息子さんと仲良くしてもらってる片桐です。そちらに息子はお邪魔していますか?」

「ああ、こちらこそお世話になってます。ついさっき帰ったところですよ。今日は唐揚げだからって嬉しそうに」

 血の気が引くのを感じた。

 礼を言って受話器を置くと慌てて出かける支度をする。智治の様子に妻は台所から顔を覗かせる。

「どうしたの?」

「奨也を迎えに行ってくる」

「そう。唐揚げが冷める心配はなさそうで助かる」

 何か変というくらいで彼女は智治の焦りを深刻に捉えていない。智治は心霊現象などが嫌いな多恵に自身が体験した九十九様と八十八様の件は口にしたことがなかった。

 携帯電話で昔からここに住んでいる何人かの友人に、奨也をみかけることがあったら引き留めてくれと頼んで玄関に走る。

 智治は靴を履いて出かける寸前、信楽焼きの狸を奥に傾け下に敷いていた枯れ葉を掴むと家を飛び出した。智治が手を離した狸は戻るときにバランスを崩し靴箱から転げ落ちると、三和土に向かって真っ逆さまに。信楽焼きの狸は大きな音を発てて粉々に壊れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫雲 葵 一 @aoihajime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ