終章

 かつて彼女は私の妻だった。

 彼女は鬼籍に入るにはまだ十分過ぎるほど若かった。最初のお産で子を望めない体になってしまったが、男子が生まれていたら離縁にはならなかったかもしれない。

 しかし、彼女が生んだ子は女子だった。死産だったと告げられていたが、本当は生きていると告げられたのは、彼女との離縁が決まってからだった。


 本当に酷い話だと思うだろう。両親は息子の私すらも騙していたのだから。

 しかし、そんな非道な行いをせずにはいられないほど、父や母は後継ぎとなる男子を切望していた。長男だった兄を病で亡くしてしまったからだろう。

 だが、無情にも彼女と離縁する道を選んでしまったのは、私の心の弱さだ。言い訳のように聞こえるだろうが、周囲から散々説得され続け、私も抵抗するのに疲れてしまっていた。


 もし、彼女が涙のひとつでも見せてくれれば……。

 いや、それはいい言い訳だ。


 ――今までありがとうございました。


 彼女は素直に私の提案を受け入れてくれた。きっと彼女も、この家に身を置いているのが辛かったのだろう。最後にお辞儀をした妻の身体が、まるで少女のように頼りなく感じたことを、今でも覚えている。


「父さま、どうしたの?」

 娘の声で我に返った。娘はもう十になっていた。

「ああ……すまない。少し考え事をしていたんだ」


 娘の早季は妻によく似ている。妻によく似た、思慮深い瞳で私を見つめるたびに、僅かばかりの苦い後悔がさざ波のように押し寄せる。

 妻の墓は小高い山の頂へ向かう途中にある寺にあった。数百年の樹齢を過ぎた木々に囲まれた古寺は、妻の実家の一族が代々眠っている。

 しかし、妻の墓だけは寺の片隅に追いやられるように、ひっそりと佇んでいた。

 出戻りの娘で、しかも彼女は私生児だった。

 墓地の片隅に追いやられた彼女の墓を見るのは辛かった。

 さらに、自分の幸せを見せ付けに行くような気がして、正直なところ行くのをやめようかと思ったくらいだ。


 ――大丈夫。きっと由比は喜んでくれるから。

 背を押してくれたのは、彼女の兄であり、わたしの友人でもある男だった。

 彼との付き合いは、細々とではあるが今も続いている。

 緑に囲まれた歩道の苔むした石畳を踏みしめる。

 ここは無音に近い。足音も息遣いも、すべて木々の中へと吸い込まれていくようだ。すべらないように、足元を見ながら歩き続けていると、ふと、人の気配に気が付いた。


 顔を上げると、前方から笠をかぶった僧衣姿の男が坂道を登ってくるところだった

 一瞬老僧かと思ったが、まだ若い坊主のようだ。

 修行の身なのだろう。彼が身につけた墨染めの衣は、灰色に色褪せ、襤褸布をまとっていると言っても過言ではない。

 坊主姿の青年は、私たち親子に気づいたように軽く会釈をする。私も会釈を返し、そのまますれ違う――はずだった。


「お坊さま、どちらへいらっしゃるのですか?」

 早季が無邪気に訊ねた。坊主の青年は、早季と目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「これから、大切な人に会いにいくのですよ」

「わあ、早季もです。さっき行ってきたところなのですよ」

 早季も、柔らかい頬を桜色に染めて満面の笑顔を浮かべた。

「こら早季。お坊さまの邪魔をしてはいけないよ。…………申し訳ございません」

 すると若い僧侶は柔らかく頭を振ると、早季の頭を撫でた。

「可愛らしいお嬢さんですね」

「ありがとうございます」

「今日は、奥さまのお参りでしたか?」

「………ああ、ご存知でしたか」

 年に何度も訪れていないが、どうやら顔を覚えられていたらしい。

「実はこの春、再婚をすることになりまして……」

 今日私が訪れたのは再婚の報告のためだった。

 桜が咲き誇る頃、私は二度目の祝言をあげることが決まっていた。一刻も早くと急かす両親を何とか説き伏せながら、よくもこんなに引き伸ばせたものだと我ながら思う。

「きっと、奥さまもご安心なさることでしょう」

「ありがとうございます。お坊さまにそう言っていただけると気が楽になります」

 友人にも同じようなことを言われていたが、やはり僧侶に言われた方が信憑性があるように思えてしまう。

 ふと、その友人が奇妙な話を聞かせてくれたのを思い出した。


「そういえば、お坊さまはご存知でしょうか?」

 彼女の一族にまつわる不思議な話を、わたしは若い僧侶に語った。亡くなった人を一晩家に留めておくと、無残に鬼に喰われてしまうという恐ろしい話だった。

 でもそれは単なる教訓じみた言い伝えで、そのような出来事など起きる訳がないと聞いていた。

「しかし。妻の亡骸は……消えたそうです」

 跡形もなく彼女の亡骸は消えていたという。

 正確には、亡骸だったのかわからない。だが、すでに医者から匙を投げられていた彼女は、いつ死んでもおかしくなかった状態だったという。

 もし逃げ出していたとしても、いや……そんな状態で逃げ出すことなど不可能に近いだろう。

 それにもし、本当に彼女自身が逃げ出していたとしても、間違いなく生きてはいられない。

 彼女の亡骸が今だ見つからないのは、野犬に食われてしまったか、もしくは海に流されてしまったかは、誰にもわからない。

 彼女の墓が空っぽだと知っているのは、彼女の一族の者でも極わずかだという。私も友人に告げられたものの、誰にも話したことなどなかった。


「すみません。おかしな話をしてしまいまして……」

 なのに、なぜよく知りもしない僧侶などに話してしまったのだろう。

「いえ……」

 しかし若い僧侶は驚くでもなく、私の奇妙な話に静かに耳を傾けてくれた。

「奥様のために、念仏を上げさせてください」

 穏やかに目を細めると、若い僧侶は静かに手を合わせた。

「ありがとうございます」

「……あなたも、どうか新しい奥さまとお幸せに」

「はい……」

 私は感謝の気持ちを込めて、深々と頭を下げる。しかし、顔を上げた時には、すでに若い僧侶の姿はなかった。

「お坊さま?」

 私は慌てて辺りを見渡す。

 一本しかない山道だ。どんなに早足だとしても、すぐに姿を見失うわけがない。


「夢、だったのか……?」


 白昼夢? いや、そんな莫迦な。

 私は軽く頭を振ると、早季が私の袖を引いた。


「父さま?」

「いや……なんでもないよ。さあ、帰ろうか」

「はい」


 元気良く返事をする早季の小さな手を、わたしはしっかりと握り締めた。


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しひと喰いの鬼 小林左右也 @coba2018

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