第6話 光とともに
エリカは塔の外にいた。大事なものを売ってしまったので、エリカの心は時間が経つに連れ徐々に空寒くなっていた。こころにぽっかりと染みのような穴があいてしまった。記憶喪失者のように、エリカは街をさまよった。私は『弟』を探している。そうだどこかへ行こうとしていたのだ。…もうすぐ決められた時間と空間がやってくる。
日は暮れ、空気の温度は下がっていった。服の中に冷気が入り込む。身体の感覚だけが、皮膚だけはこわばって、外の環境の変化に対応していた。しかし頭は錯乱していた。
遠く、白い煙を吐きながら汽車が横切っていく。見知らぬ街の向こうに見える丘が、ふと自分の故郷、現実の世界にある自分の住む家が待っているあの丘のように思えてきた。何もかもなくなっているのであろうか。あの家に続く道はまだ残っているのだろうか。もうあの家には別の人達が住んでいるのであろうか。…そもそもあの家には誰が住んでいた?忘れまいと思えば思うほど、思い出は記憶の闇の彼方へ次々と消えていく。
駅から異国の住人が降りてくる。乗り場の外には砂漠が広がり、風はこの世界の果てからびゅうびゅうと吹きつけていた。人は記号のようだった。擦り切れた帽子を被った、顔中にシミのある老人。褐色の荒れた肌と、艶が失われた、ほつれた髪の中年の女性。鈍い肖像だった。確かに実在感はあるが、借り物のようなのだ。人のざわめきは聞こえるのだが、確かな内容はどんなに耳をそばだてても分からなかった。影は人間の形を取ったが、そこに魂は無かった。エリカは自分がこのささやきと喧騒のなかに埋もれていくのを感じた。何もない。自分を形どるも、彩るものは何も。
死にゆく太陽が西に輝いている。エリカは自分の心が死んでいくのを感じた。あの太陽が沈む時、私も死ぬのだろうか。世界がなくなれば、人は死んでしまうのだろうか。光に看取られて死ぬのはいいかもしれない。広場の噴水が、光を浴びている。
降り場にはもうほとんど人は居なかった。途切れ途切れの乗客の列の中、見覚えのある人間が降りてきた。あれは誰だったろうか…。相手もこちらに気づいたようだ。何故あんな目で見るのであろうか。エリカはその意味を知るために、記憶の中を探ってみた。
彼は親しそうでもなく、かといって無愛想という調子でもなくエリカの方に小さく手を振って挨拶した。彼は夕方の空が描かれたコートを着ている。
「今この島の周りをぐるりと一周してきた所だよ」
男は相変わらず言葉を口走っている。コートが風に吹かれて、翼のようにはためく。
「あなたはどこからやって来たの?」
「……から。他にどこからやって来るというんだ」
よく聞き取れなかった。私の頭の中から来たのかしら、と一瞬エリカは思った。
「エリカ、君はどこから来たんだ」
男は名乗ってもいないのにエリカの名前を知っていた。怪しまなければならない点だったが、
エリカは男の人を落ち着かせる低い音程の声に騙された。
「塔からよ」
「塔か。あそこには嘘つきの女がいただろう。あの女は自分のことをほとんど覚えていないのだ」
「でも彼女は名前を名乗ったわ」
「その名前はうその名前だよ。あの女は名声と力に溺れるあまり、ついに自分の本質を見失ったのだ。言葉は一つの魔法だよ。あの街もついに本物の墓になった」男は小さく笑った。
「さて我々も行こうか」
次の列車がやって来た。男は手招きした。
「どこへ行くの」
「どこへって、君は知っているはずだが」
列車は止まっている。男はエリカの顔をじっとのぞきこんだ。弟ではない。ネルーなのだろうか?「わからないわ」とエリカは答える。
「帰る家がないのよ。どこへいけばいいのかもわからない」
「いいや、きみは知っているはずだ。『目的地』がどこなのか。なぜならここに来たんだから」
男は先に行ってしまう。夕方の、奇妙に長い影が駅のホームに伸びている。ついていかなければ置いていかれる。エリカが飛び乗ると同時に列車は発車した。
男の歩く速度は速く、エリカは小走りで付いて行かねばならなかった。
奇妙なことに人は誰もいない。壁には、何かの宣伝やプロバガンダのポスターが貼られている。音楽会の会場時間や、何らかの会合の集合時間が書かれているそれらのものは、今にも風で吹き飛ばされそうだった。
「ねえ今は何時なの」
「4時だよ」
男の横顔は暗い。
「困ったわ2時間も経ってしまった。もうネルーは行ってしまったのかもしれないわね」
男はエリカの方に振り向き、異国の言葉で何か言った。その口調は明らかな怒気を帯びていた。男が何を言っているのか本当にわからなかったのでエリカは悲しく首を横に振った。
「まあいいさ」男は深いため息をついた。
駅の町並みは、無秩序と無統制が支配していた。あらゆる道は勝手な方向に交錯し、柱や壁や天井に描かれた指導標も勝手な方向につけられていた。積み木を並べたような家々は斜めや逆さまに立ち、建物も中と表が裏返しになっていたりともうめちゃくちゃだった。
絶望的な行進がしばらく続いた。しばらく進むと道は二つに分かれ、境目には立て札が立っていた。
『西←街 家 東→』と書かれている。男はエリカの脇をスッとすり抜け、西の道を歩いていく。エリカも西の道に続いた。
『西←13時 2時→東』と書かれている
エリカは西の道を選んだ。男の動作はあまりにも速過ぎ、影だけが西の道をすり抜けていったのが見えた。
『西←ネルー 東→ロイ』
空には鳥が飛んでいる。立て札の木は古く、傾き、この世の果てから吹く風のせいで、今にも倒れそうだった。西の字は印刷された文字のように、正確に書かれているのに対し、東の字はところどころ消えていた。
ネルーは会ったことがある。門番だ。東の方にいるロイは…誰だった?エリカは全て忘れてしまっていた。…弟を探さなくては。男の姿は見えない。
「選べないわ」エリカがそう呟くと、立て札は倒れてしまった。同時に道はなくなってしまった。
エリカは動かなかった。顎を上げ空を見て、泣いた。
「夜がやってくるぞ」いなくなった男の声が空から響く。
「日が落ち、沈み、大地は冷え、夜がやってくるのだ」
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