第5話 忘らるる都

街のあらゆる記念碑、あらゆるモニュメントは、記憶をとどめておくためにある。人はいつか忘れてしまうから。街に幽霊がいるという噂がたつのもそのせいだ。


*


「私の名前はユウディー」

小さく、高いソプラノの声だった。椅子から降りた少女は、聞かれもしないのに、未だ床に倒れているエリカの正面に立って名を名乗った。エリカは床に体を転がし、痛みをこらえながら、ようやく半目を開く。

「あなたの名前は?」

「……リカよ」エリカはかなり激しく床に叩きつけられたのでなかなか起きれずにいた。床はチェス盤のように白と黒のタイルが隣り合わせになっている。

「そう、リカというの。よろしくリカ」

少女は天使のような笑みを浮かべてエリカに手を差し伸べた。エリカが手を取ろうとすると、ユウディーは素早く手を引っ込めてしまった。エリカは再び床に叩きつけられた。ユウディーの背はエリカより頭一つ分小さかった。

「で。何か用なのリカ?」

「男の人、来なかった?背が高くて、青いコートを来た人なんだけど」

エリカは息を切らしながら言った。ユウディーは何も言わなかった。代わりにエリカのつま先から頭の上を値踏みするように眺めながら、周りをゆっくりと一周した。部屋の奥には先ほどまでユウディーが座っていた椅子があり、その側には黒い小さな帽子が床においてあった。ネルーの帽子だった。

「男の人は来なかったわ」

嘘ね。ではあの帽子は何?エリカは誰にも聞こえないように小声でつぶやいたが、ユウディーは返事をした。

「嘘はついてないわ。言葉を言い変えているだけ」

ユウディーはエリカの顔をずっと以前から知っている人みたいに見て、にやにやした。

「…あなたはそれに代わるものを何か持っているの?」

「代わり?」

「『ネルー』の代わりよ」

「あなたはネルーを知っているのね。彼はここに来たの?彼がどこにいるか知っているの?」

「何故私があなたに『誰かの名前』を知っていると言うことを教えなければならないの」

ユウディーは優しく微笑む。

しばしの沈黙の後、エリカはしぶしぶ片方の三つ編みをとき、リボンを渡した。それはエリカがもう覚えていないくらい小さい頃から身につけている、お気に入りのリボンだった。

「ネルーはここに来たわ。でも彼はその後どこかへ行ってしまった」ユウディーはそのリボンを早速自分の巻き毛につけながら答えた。リボンをユウディーにあげてしまったエリカは、そのリボンの思い出と、自分が昔三つ編みをしていたことを忘れてしまった。

「彼はまだ街にいるの」

「さあ」

「答えになってないじゃない」エリカは顔を真っ赤にして怒った。ユウディーは部屋の天井を見たあと、自分のつめを面倒臭そうに見た。

「ああそうだ。ネルーはあなたのことを探していたわ。でも時間が経ってしまったから、もうあなたのことなんて忘れてしまったかもしれない」

「どこにいるのか教えてよ」

「何かが欲しいと望むのなら。あなたは他に何か売れるものを持っているの?私の望むものを?」

ふふ、とユウディーのピンクの唇から上品な笑いが漏れた。しかし後ろの赤い扉をもう一度開ける気にもなれなかったし、仮にこの塔を出られても問題が解決するわけではなかった。弟のこと。ネルーのこと。そして『1人で歩く権利』のこと。先に進むためには勇気を出さねばならなかった。エリカは早く用を済ませて立ち去りたかった。

「本当にあなたは何でもわかるの」

「少なくとも私はあなたよりこの世界についてわかっているのよ。質問に答えられないなら、交換は成り立たないわ」

「ではまず聞くわ。ここはどこなの。首都ではないんでしょう?」

ユウディーの表情の動きが一瞬止まったが、すぐにニタリと笑う。

「…ここは時の墓場よ。魔法使いが死んでしまってから、この国の全ての時間は止まったのよ。この世界で動くものは影だけなの。ここも昔は首都だったかもしれないけれど、そのことは忘れられたのよ」

部屋の奥に窓があった。午後の光が漏れ、子供達の小さな影がかけっこしている。

「…私はこの国を『1人で歩く権利』が欲しいの」

ユウディーは自分の巻き毛をいじった。

「リボンだけじゃだめね。代わるものが必要だわ」

価値のあるものを売らねばならない。この銀時計を売ろうか。いや、時間を知るために銀時計は必要だ。ならば何を?不要なものを売らねばならない。

「…そうね。私は今、何も持っていないから、私の思い出を売ることにするわ」

ユウディーは目をあげてエリカを見た。姿と形と記憶は、正にユウディーの望むものと言えた。

「本当にくれるのかしら」

「ネルーと弟がどこにいるのか知りたいのよ。私の弟、ロイっていうんだけれど…」

ユウディーはしばしエリカを見つめた。無言のまま、部屋の壁に面している本棚に移動し、たくさんの本棚の中の1つから、一冊本を取り、パラパラめくった。彼女の左手に握られている杖の先に彫られている鳥の翼が、白く光る。

「そのネルーとかいう門番は…午後2時…『新しい都』に向かったみたいね。あなたの弟もそこにいるわ」

「他に街があるのね。ねえそこへはどうやって行くの?今はそこにいるということは、時間が経てば彼は別の所に行ってしまうのかしら。ねえユウディー。今は何時なの」

部屋の奥に窓があった。窓の向こうの空、太陽は西へと傾いている。雲は穏やかな風に流されている。

「12時。あなたの時間はまだ12時。時計を見てないの??」

エリカは胸のポケットから時計を取り出してみた。針は12時を指して壊れていた。

「でも空の時間は流れているわ。ネルーも太陽が時計の針だと言っていたわよ」

「でも今はネル―はいない。だからその言葉に力はないし、あなたの時は流れていないの。だからあなたは先の時間へは進めないのよ。あなたは世界に置いていかれるの。死ぬかもしれないわね」

ユウディーは美しい口を歪め、下品に笑って見せた。

「時計、時計が壊れたせいなのかしらね。直すにはやっぱり…」

「『代わりのもの』が必要ね。でこれ以上の取引は危険よ。私はあなたの目玉も指もいらないもの」

ふふっとユウディーは急に噴き出した。「…この制限も『決まり』の1つなのよ。『決まり』が無くなったら相談に乗ってあげてもいいわよ」

どうして時計は壊れてしまったのだろうとエリカは思った。ユウディーはまだ笑っている。

「…それと『この国を1人で歩く権利』が欲しいの」

「無理ね」

「でもネルーはあなたから権利を買う必要があるって言っていたわ」

「『決まり』を破るとろくなことがない。あなたにはお連れの方がいるでしょう?彼にはもう会ったの?」

「それは誰なの?どこにいるの?」

「それはあなたしか知らないわ」

「なんでもわかるといったじゃない」

「わかる範囲で答えさせて頂くと、お連れの方というのはね、あなたと同じ目的の場所へ、そしてあなたの向かう所にいるものなの。旅の始まりから、彼はあなたの近くにいるけれど、あなたは旅の終わりまでそれに気づくことはない。さあこれで質問に答えるのは終わり!次はあなたの番よ」

*


エリカは自分の家の話をした。エリカの家は街外れの丘の上にある。レモン色の家で庭には一本のパラソルが立っている。これは借り家で弟と二人で暮らしている。故郷から通うには学校が遠すぎるからだ。丘の上には家は一件しかなく、ロイはまだ下級学校にいるから、登下校はいつも一人だ。

夕方から寝るまでのわずかな間、二人は同じ時間を過ごす。夜になると窓には明かりが灯り、そこから二人がテーブルを囲んで椅子に座っているのが見える。低い天井につるされたランプの明かりは、放っておけば夜の闇に侵される室内を、淡く照らしていた。よく磨かれたテーブルは、ランプの光を油のようにピカピカと反射している。ロイはテーブルの上に古い紙切れのようなものを広げ、そこに描かれた手書きの図をペンで突っつきながら説明している。

「…夜の大陸には、これ以外にも様々な名前があるんだ。『世界の断片を集めた大陸』とか、『この世のあらゆる空間と時間に繋がる大陸』とか。その理由は、夜、夢をみれば誰でも行ける場所だからなんだけれど」

ロイの喋り方は一方的で、無頓着そのものだ。眼鏡をおさえながら彼は姉に説明する。彼は分厚いめがねをかけているので、彼の目は小さく、中心の鼻から随分離れて見える。何かの拍子で眼鏡がずり落ちると、誰もがその目の大きさにびっくりする。

「私は生まれてから、人並みに夢を見たけど、そんなところには行ったこともないし、見たこともない。どうやって行くの教えて欲しいものだわ、ロイ」

ランプの光がエリカの頬骨を照らしている。エリカの肌は日に焼けても黄金色にならない。代わりに、軽い火傷のような赤みを帯びる。白い額の上には細かくて柔らかい、栗色の毛が生えていて、それをエリカはいつも赤いリボンで横に2本に結っていた。でも今の彼女は、もうそんな昔のことはを覚えていないが。

「船が出てるって話だよ。港から日に一本だけ。でもその港がどこにあるのか誰も知らないのさ。この国は夢の中にあるんだ。だから港も、夢の中にあるんじゃないのかな。というわけで、今度夢を見たら、夢の中をよく探してごらんよ姉さん」

「国境はどこなの。海の真ん中に国境があるのかもしれないわよ。許可無く超えたら、どこからか大砲の弾が飛んできて、船ごと沈められてしまうかもしれないわね」

「国境は、海と陸の境が国境、ということになっているね。でもあんまり意味が無いんだよ。どこの国とも国交がないし。そもそもこの世界には戦争なんてものもない。みんな孤立してて、平和な世界なんだ。大砲の弾なんてどこからも飛んでこないし、境のことなんて気にするのは何も知らない旅人ぐらいなものだ」

エリカはせせら笑った。しかしこれはフリだった。話を止めさせようとしたのだ。しかしロイはエリカが笑ったことにすら気づかなかった。二人は幸せな姉弟だった。

「で。姉さんはそこに行きたいと思うのかい」

「行かないわ。そんなどこにあるとも知れぬ国には行かないわ。誰も行かないでしょう?」ロイは単純に、姉さんはすごいな、と思った。

「その世界は確かに『ある』のだけどそれが『どこ』にあるかはわからない。みんなは探さないし。求めもしないけれど。誰かはそれを求め、いつかたどりつくのかも知れないね」

ロイは自分が本の世界に住人だとでも思っているのだろうか。時間が経てば嫌でも『この』世界の中で生きなければならなくなるだろう。エリカは予言者のようにロイの未来を予言してみせた。しかしロイはエリカがそんなことを考えていることに全く気づきもしない。

「さて夜も深まってきたし、もう寝ましょう」

エリカはランプの火をフッと息を吹いて消した。家の中は夜の闇の中に紛れ、外と変わらぬ世界となった。夢は消え、静寂が訪れた。ロイが寝てからしばらくしてからエリカは床についた。横を向くと、隣のベッドで寝ている弟の規則正しい寝息が聞こえてきた。毛布はちゃんと被っているとはいえ、腹を完全に天井に向けて寝ている。泥棒が入ってきたら、そのまま腹を刺されて殺されそうだった。恐らく彼は眠ったまま死ぬのだろう。そして夢の中で生き続けるのだろう。彼女は、そんな彼が羨ましかった。


*


「リカ。あなたは馬鹿だわ。この取引で、あなたはあなたであるしるしを私に売ってしまったのよ。だからもうあなたはあなたではないし、かつてのあなたというべきものはこれから全て『私』になってしまうのよ」

ユウディーはエリカに杖を向けた。しかし杖は光る代わりにまっぷたつに割れた。

「私の名前はリカじゃないのよ」

「嘘をついたのね」

「騙すつもりはなかったの」

エリカは本当に申しわけなさそうに言った。

「ここは忘れられた都なのよ。忘れられると死んでしまうのよ。しかしあなたが自分の思い出を失ったことには変わりない。近いうちに、あなたはあなたであるしるしを失い、死ぬわ」

窓の外に午後の太陽が見える。ユウディーの姿は太陽の光に吸い込まれたかと思うと、輪郭が消え、次の瞬間には無くなっていた。塔の最上階には、机と、椅子と水のせせらぎの音だけが残った。飾られていた草や木は枯れる間もなく鉢ごと消えていた。ユウディーの割れた杖だけがチェス盤の床にごろりと転がっている。

…誰がユウディーの黄金色の瞳と、銀の髪を覚えているんだろう?

ユウディーの美しいあの姿形は既になかったが、代わりに、どこからかすすり泣きが聞こえてきた。女の泣き声だ。床に落ちた杖が死にかけの生き物のように、ゴト、と動いた。

ユーディーの声が聞こえた。「私は鳥になってこの塔の上に行きたかったの!」エリカは急いで赤い扉を開け、二度とこの部屋を振り返ることはなかった。

螺旋階段の絵は全て女の肖像画になっていた。エリカは目を背けながら塔の入口を目指した。入口の扉はわずかに開き、午後の太陽の光が漏れていた。


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