第3話 天国に向かう船~国の決まり
この国には王が無い。昔はいたのに今はいない。だから残された者たちが、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
*
エリカには弟がいる。名をロイといい、エリカの『目的』はこの弟を探すことだ。
内容は単純だがそれはとても難しい目的だった。しかしエリカは楽観的だった。西の森の向こうにはこの国の首都、そしてたった一つの街である「メルの墓」がある。異国のものにはよくわからない、彼らが自分達の身体に抱える問題、身体とこの国の環境との関係で、国の住人の大半はこの場所にしか住む事が出来ないのだ。この街に行けば弟の事も何とかなるだろう。だってそこにしか人はいないのだから。エリカはそれしか考えていなかった。だからエリカは楽観的だった。
「お嬢さんは一人でこの先への道へと行くつもりなのですか」
「出来ればね。あなた門番さんでしょう。わたし、この門を通れると思うかしら」
あれからしばらく後、エリカはそのまま道を進み、西の森に到着した。森の木のほとんどが針葉樹だった。中に入るとエリカは日差しが急に弱くなったのにまず驚いた。空を見上げると、太陽の位置が先ほどより低くなっているのだ。高さは森の隙間からやっと見える程度。時間は経っているのにこれはおかしなことだった。太陽と言うのは大体にして、時間が経てば高くなるものなのではないのか。この国の太陽は、自分の気分で勝手に上下するのであろうか。エリカは心配になってきたので時計を取り出し今の時刻を確認してみた。時計は銀色の懐中時計だ。目的の『弟』に誕生日プレゼントにもらった品である。本当に銀で出来ているのかはわからないが、恐らく玩具のようなものなのだろう。
時間は9時だった。時計の針まで急に動かれてはたまらない。時間自体はいつもと同じようだが、2時間も経っていた。太陽の位置は低くなったまま動いていない。時間の感覚が麻痺しているのだろうか。何もかも、あの動かない太陽のせいだろうか。エリカはこの不安を誰かのせいにしたくなってきた。
「お嬢さん」
その時後ろから声がした。木立の向こうに何か異様に背の高い影のようなものが映っていた。あの時の門番だ。
空色のコートには、揺れる太陽と、時と共に移り変わっていく天空の様子が描かれていた。門番がひょい、ひょい、と木の根っこや、地面から飛び出している石を飛び越えていくたびに、コートの風景は変わっていった。コートの中に雲が流れているのだ。門番がエリカの前で立ち止まると、コートの変化は止まった。
「森の中を一人で歩くのは危険ですよ」ネルーは全く汚れていない自分のコートを叩きながら言った。
「あなたさっき通したじゃない」
「まさか1人だとは思わなかったので。お連れの方はいないのですか」
ネルーは空の色が浮かんだ目でふっとエリカの側の何も無い空間を、そこに『お連れの方』がいるかのようにじっとみた。誰もいないわよ、と、エリカは静かに答えた。
「おかしいな。『訪問者は二人以上でなければ、国に入れてはならない』って決まりがあったのに。どういうことなんでしょう」
「私はさっき一人で通ったわよ」
「ええ。それはわかってるんですが。あなたこの国の中に誰か知り合いがいるんじゃないですか。そうか。だからか。なるほど。あ。私は門番のネルーといいます。よろしく」
門番ネルーは、自分で質問して、自分で解決し、自己紹介をした。目の玉は動かないくせに身振り手振りの激しい男だとエリカは思った。
「私もこれから首都に行く所です。ついでですし、あなたが『お連れの方』に会うまで私が付いて行ってあげましょうか」何かの詩でも朗読するかのように、彼は言った。唐突な提案だった。それが自分にとっての当然のマナーのように彼は言った。何か裏に魂胆があるようには見えなかった。エリカは少し考えた後「そうしてくれると有難いわ。もう知ってると思うけど私の名前はエリカよ」と返事をした。エリカは手を差し出し、二人は握手した。ネルーの手は温かいのだが妙な感触がした。「エリカさん、よろしくおねがいしますね」ネルーはエリカの手をしっかり握った後、何かまずいことでもあるかのように急いで引っ込めてコートの袖に一度いれ、それをまた出した。
それから二人は木の間を縫って歩いた。ネルーがエリカのやや先を歩いた。時折エリカが妙な方向に行きそうになると、手招きして「こっちですよ」と言って、道を正した。
太陽の位置は相変わらず動かない、熱をもたぬ風だけが、ざわざわと道を洗っていく。森が深まるにつれ、空からたくさんの白い光が差しこんで来た。光は透きガラスのように白白としている。木立は白く透き通り、空も、太陽も、日の光も、木漏れ日に落ちる影も、白いクレヨンで描かれた幼い絵のようだった。絵本のなかの光景に似ていたので、エリカは懐かしさを感じていた。その横から、ネルーは観光案内人のように小出しに説明をしていた。
「ここには、外から一見しただけではわからない、様々な『決まり』があるんですよ。年齢ごとに滞在期間が決まっていたり、夜までに帰らなければならなかったり。さっき言った『訪問者の人数制限』もそうですね。2人以上でなければならないのに、7人以上はダメだとか。年齢もまあ人によりけりなんですけど、入国が許されるのは基本的には子供と老人だけです」
「『決まり』を破るとどうなるの、たとえば、もしさっき、私に誰も知り合いがいなかったら?」
『お連れの方』というのはエリカが思うに、弟のことだ。ロイがこの国にいるから、エリカが入れるのはわかったが、ロイはどうやって入ったのだろう?エリカは不安に感じていた。
「ここには法や政治機構は存在しないのです。昔は王様を中心に中央集権化されていましたが、王様がいなくなったので、無くなってしまったのです。残ったものは、もはや国ではない『国の名前』と、残った住民のゆるやかな連合と、体系として意味をなさず、形骸化してしまった、おかしな制度と慣習があるぐらいなものです。『決まり』もこの慣習の一つでね。まあ慣習を無視してもいいことはあまりありませんよ。しきたりというのはそのことが長い間繰り返して行われた結果生まれたのですから」
「随分と長い歴史がある国なのね」
「この世界は『人類の時代の曙』から始まってるとも言えるし、『世界は5秒前から始まった』ともいえるのです。この国の時間というのはそういうものなのです。
それでも今は昔より大分『決まり』の数が減った方で、昔は『この国の空気を吸う権利』だとか『この国で考え事をする権利』だとか『この国で声をあげて笑う権利』だとか『ちょっとあくびをする権利』だとか、入る前に、買わなければならない『権利』がたくさんあったんですよ。それも物々交換でね。物といっても、牛とか木の実とか光る石じゃないですよ。他人には意味が無いものでも、自分にとってはとても大事なものを売る。それがここでの物々交換です」
エリカはネルーの話がつまらなくなってきた。彼女は、大事なところでいつもつまらなくなって、聞き逃してしまうのだ。エリカは小さくあくびをしたが、横でネルーがこちらを見ながら目をパチパチさせているのに気づいたので、開いたままの口に手をやり、数秒の間決まり悪そうに下を向いた。それからまるで今思い出したように話し出した。
「森の中を一人で歩くのは危険なの?」
「危険ですね」
返事は早かったが、答えになっていないので、エリカは言葉を変えてもう一度聞いた。
「その理由は…?」
「『きまり』を破ってもいいことはありませんよ。森に限らず、この国の中を一人で歩くのは危険なことです」
「王様がいないのに、誰も取り締まる人がいないのに、どんな悪い事が起こるというの?例えばどんな?」
「上を見てください」
そろそろ通りかかると思いますから。ペンの先みたいに小さいネルーの瞳孔は上へ上へと移動した。エリカは空の方角を見た。羽根みたいな鳥が飛んでいる。太陽は矢のように天空に突き刺さり、身にまとう光は弧を描く。光の雨が森に降り注いでいる。逆光によって梢は影のように黒くなっていた。エリカはじっと目を凝らす。高い木の上に何か大きなものが見える。初めは鳥の巣かと思ったが、大きすぎる。光に慣れるまで、さらに時を待つ。
「船だわ」
木の上には巨大な船があった。
船についてそれほど詳しくないエリカでもわかるほど、旧い型の船で、それは枝に絡まりながら何本もの木に支えられて宙に浮いていた。本来海にあるべきはずのそれはまるで空飛ぶ船のようだった。エリカは水たまりで自転車を越えたときのことを思い出した、あれは船なのだろうか?
「あれは墓標ですよ。昔は海に浮かんでいたのですがね」
「ここは森よ。いくら時間が経ったからって、海が森になるまでの時間、あの船は待っていたとでもいうの?」
「ここは時間の流れ方があなたのいる世界とは違うのですよ。『時』は『訪問者』と『この国の住民達』の思考と記憶の影響を受けるのです。必要の無いものは誰も気づかぬうちに塵芥(ちりあくた)になってしまいますが、人々の覚えがいいものは、いつまでも美しい姿を保つのです。あの船はあれでもましな方ですよ。みんな、海がここにあることを忘れてしまったのに、乗っていた人々のことも忘れてしまったのに、船だけはあるんだから」
「あれは罰なの?」
「そうです、あの船の乗り手は、多くの罰を受け、最後には自分の名前と記憶をなくしてしまったのです。彼はもはや自分が誰なのかもわからないし、記憶する事も出来ないので、これから新しい何かになることも出来ないのです。ただ命だけはある、哀れな男です」
そう言ってネルーはガラス玉の目をパチパチさせた。そして彼は少し笑った。素敵な笑顔だったのでエリカもつられて笑った。
話が一区切りつくころには、船は既にずっと後ろの方にあった。
エリカはもう一度時計を取り出してみた。針は12時を指して壊れていた。ネルーが時間の話をしたから時計が壊れたように、エリカには思えた。エリカはその時計を胸のポケットにしまった。
「ねえ、今は何時なのかしら」
「時間など太陽の動きをみていればわかりますよ。あれがこの国の時計の針なのですから、ね」
太陽の位置は動いていなかった。この時計はわざわざ12時を指して壊れたのだろうか?それとも12時に壊れたのだろうか。わからなかった。
やがて森は明け、二人は切り立った高い崖の上に出た。頭上には太陽がそびえている。まだ昼前に見えた。下には街が横たわり、まぶしい光に照らされていた。街は円形に広がっており、石で出来ていた。中心部ほど高い尖塔が並び立っている。一番高い、何本かの塔の先には薄い雲がかかっていて、都市にも雲は浮かぶものなのかとエリカは思った。
街の更に向こうには、名も知れぬ高い丘が見え、黒光りした汽車が丘の脇を音を立てて巡っている。
「ここがメルの墓と呼ばれている場所です」
「『場所』って、街じゃないの?」
「行ってみればわかりますよ。まだまだ目的地には遠い。話は始まったばかりなのですから」ネルーは崖の上から世界を見下ろした。エリカは空と太陽をみて少し不安になった。崖の上に門番の高い影と、少女の小さな影があった。二つの影は棒にでも支えられているかのように不安そうに、そして何かを期待する2対の鳥のように、世界を見下ろしていた。
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