第2話 1つめの門を越えて
天国の門は雪のように白く、雲の上にあるという。昔、天国を目指した旅人がおり、その旅人は雪国の門を見て、ここは天国だと思ったのだそうだ。
彼がその雪の国に辿り着いたのは晩年の話で、旅に出た初めの頃はまだ若い青年だった。遠い旅の果てたどり着いたこの地で、彼はここを天国だと思い、長年の労苦と幸せのあまりその場で息絶えてしまった。辺り一面には雪が降り積もり、雪は門と地面を白く染め抜いていた。この地はあまりに北にあり過ぎ、季節は秋と冬しかやって来ない。死体にはそのまま雪が降り積もり、彼は、誰に看取られる事も無く、その姿を氷の下に永遠にとどめた。
最初の舞台は夜の大陸の南部。東には砂漠、西には森が広がっている。ここはその境だ。辺りは草原になっていて、低木がところどころに生えている。風が吹くたび、草木がサヤサヤと揺れ、その緑に、冷たいスープのような涼しげな空がよく映えていた。空気は乾いている。今、この地帯は乾期なので、雨はたまにしか降らないのだ。
草原の間には誰が通ったのか、一本の道が通っている。この道は東の砂漠から中間地点の境の門を抜け、ずっと向こうの西の森へと続いていた。門は石を積み重ねただけの古い門で、巨大であり、縦に長い。門の上を見上げるとすぐ側に太陽がある。夏だからだろうか。朝だとはいえ、太陽の位置は若干高く見える。
側には背の高い木が生えている。東の地平線は砂丘であった。恐らく旅人がやってくるであろう、その道は奇妙に曲がりくねり、うねり、どこか別の世界にでもつながっているようだった。砂漠の向こうには蜃気楼があるというから、幻にでも通じているのかもしれない。現に今も、熱気のせいで東の空が歪んで見えるのだ。
さて、門の影に一人の男が立っていた。男はその門の門番であった。彼の名はネルーと言った。男がそう名乗ったわけでもないのに彼の名はネルーだった。それは『決まり』だった。彼は今日の天気のように真っ青な、空の絵が描かれたコートを着ていて、深い青い目をしていた。背が高く、姿勢は門の角度と平行になっていた。彼は長い門の前で、仕事と目的のために立っていた。訪問者は無かった。訪問者が来るということを忘れるぐらい、長い間ここを訪れるものは無かった。ネルーが立っていること。時が流れること。太陽の角度は徐々に上向きになること。全ては同じことだった。環境と季節特有の強烈な日差しは、石で出来た門を音が鳴りそうなくらい熱くさせた。
側で何か虫のようなものが動いた。彼の顔は少しあがった。彼の視界の正面には太陽があり、顔の向きを変えなければ気配を追うことは出来なかった。しかし太陽を見ることはいくら人工的な人格の持ち主の彼にも無理な話であり、彼は顎を下げた。それから、ネルーはしばらく動かなかった。
太陽の光が、その角度を彼の視界から隠している。そしてそれは一人の訪問者の姿も隠していた。来訪者は砂漠からやってきた。それは彼が何かの気配を察知してからすぐのことだ。逆光によってその姿は黒い影となり、ネルーがそれに気づいた後も、姿が現になるまで時間を要した。訪問者は娘であった。
「こんにちは門番さん」
彼女は軽く頭を下げ、挨拶をした。小柄な娘であった。小さな彼女は髪を赤いリボンで二つに結い、赤い服を着ており、小さな茶色の皮のブーツを履いていた。
「やあこんにちは。お嬢さん」
ネルーは自分の頭の上に乗っている黒くて小さい帽子をさっと取りあげ、45度の角度で礼をした。彼はこの道から誰もやってこないことを忘れていたので、「いつものとおり」に挨拶をした。自分自身の誠実さだけが、唯一、彼の信じているもの、また、頼れるものであった。彼はいま、この場で出来る限りの笑みを浮かべた。それは彼の優しさのしるしのようなものであったが、自然な仕草ではなかったので、むしろ冷たい印象を与えた。
「お嬢さんは一人でこの先への道へと行くつもりなのですか」
「出来ればね。あなた門番さんでしょう。わたし、この門を通れると思うかしら」
彼は顎に手を少しだけ当てた後、大きな肩掛けの皮鞄から手帳とペンを取り出した。来訪者の名簿か何かなのだろう。異国の文字が、一行一行キッチリとおさまっていた。
「まずはお嬢さんの名前を教えて下さいね」
「エ、リ、カ、よ」
彼女は何かの合言葉のように自分の名を告げた。ネルーは、風でも吹いたのかのように、流れるようにページをめくった。エリカという名前は手帳の、いちばん最後のページの、いちばん最後の項にあった。
「エリカさんですね。ふむ」
ふむふむ、と、ふむを更に二回付け加えて、彼は直線というにはやや反り返っていた姿勢を少しだけ緩めた。
「ではどうぞお通り下さい」
ご苦労様、とエリカがもう一度礼をして門をくぐろうとすると、ネルーは機械のような正確さで、横からもう一度声をかけた。エリカは少し驚いてネルーのほうを向く。
「この国は年齢ごとに滞在期間が決まるのです。エリカさんは15歳でしたね。15歳の滞在期間は『目的を一つ終えるまで』です。目的を一つ終えるまでは、この国から出てはいけないし、目的を終えたらすぐに出て行かなければ成りません」
ネルーは微笑みながら門の向こうに手をやった。
「ねえ門番さん」
エリカは立ち止まった。
「これぐらいの男の子、見ませんでした?」
エリカは手で自分の探している男の子の背丈を指し示す。手はその人物がここにいないことを示すように虚しく空を切った。
「来訪者の情報を門番が流すのは禁止されているのです。中に入って調べるしかありません」
彼は笑顔のまま、エリカに直線的な視線を向ける。彼の深い空色の目が、光の角度のせいか、一瞬ガラス玉のようにつるりと光った。月のような輝き。門番は相変わらず天使のように笑っていたが、答えの内容は残酷なものだった。
門番と少女は別れた。エリカが通り過ぎるとネルーはまた、自分が誰なのか、何の仕事をしているのか忘れてしまった。
こうしてエリカは国境――国の入口を抜けたのだった。
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