第十七話[俺が彼女を見つけた]
駅前で募金箱を手にした若い男女が声を張り上げている。近年よく聞く致死性発光症関連の福祉団体だ。そういった集団は幾つもあるが、どれも微かに宗教めいた香りをまとっているのは現実離れした症状のせいか。コンクリート造りのビル群の中に、ぽっかりと神話の時代が現れたようでもあった。改札を抜けて電車に乗り込む。目的の駅は各停で二つ先だ。鞄の中の文庫本を開くまでもない。窓の外で動き出す風景に目をやった。今一つまとまりのない家々に、品のない広告看板。電線が波打ちながら通り過ぎる。二駅ほどでは、さしたる変化も訪れない。
急行は止まらない駅の、殺風景なホームへ足を下ろす。自販機のうなりがやけに耳についた。階段で出口へ向かえば、程よく古びた商店街が目の前だった。昼時にはまだ早く、買い物をするご婦人くらいにしか出会わない。見落としそうな狭い階段の上が指定された店だった。木製の小さな看板が出ている。喫茶店らしい。暗く急な階段を上がり切れば、ようやっとドアにたどり着く。古い店には珍しく、煙草を喫わせないようで室内はただコーヒーの匂いに包まれている。正面の壁に大きく切られた窓の外を、列車が通過した。店員は初老の男と、アルバイトなのだろうか、かなり若そうな娘。まだ十代なのかもしれない。先客は一人きりであった。写真なら何枚も見ていたからすぐにその人とわかる。井岡とわ。端正な容姿に文才を宿した稀有な人物。ついでに言えば、致死性発光症によって死に瀕している。
「井岡とわさん、ですか」
「はい。尾関さんですよね。ペンネームで呼ばれるのはこそばゆいですし、井岡でいいですよ。こっちは本名なんです」
艶やかな長い黒髪を揺らして、彼女は存外朗らかに応じた。首筋に接するあたりの髪には陰影が乏しい。肌に発光があるのだ。年相応の女の子って感じだな。十六歳、だったか。最近になってインターネット上で小説を発表し、爆発的な人気を呼んだのが彼女だった。作品のクオリティもそれなりのものだが、何より彼女の素性の方に注目が集まった節がある。大人びて翳りのある作風に反して、柔らかい日常を綴ったSNSアカウント。美しい顔立ちと華奢な身体を惜しげもなく全世界に公開した。その上彼女は病人だった。いつも背景は白い病室。ほとんどがパステルカラーのパジャマ姿。死を前にした麗しい少女の叫びを前に、力になりたいと思わない者がいるだろうか。
正直、すでに話題になっている作品を買いに行くのには敗北感を覚えざるをえない。これはと思える作者を育てていく喜びが、このところ訪れていないのは苦しかった。ましてや文章以外で話題になるような人物であれば、いっそテレビでやってくれと思ってしまう。後輩たちは石頭と嗤うが、文芸には文字でしかできないことをやってほしいのが本心だった。
彼女が手にしていた本を鞄に入れるのを見て、我に返る。少なくとも目の前の少女に罪はあるまい。失礼のないようにせねば。
「私の作品を評価して頂いたみたいで、ありがとうございます」
「あぁ。こちらこそお時間を割いていただいて」
「外出を取る理由になるなら安いものです」
いたずらっぽく瞳に光が宿るのを、若干の違和感と共に眺める。なにか、腑に落ちないものを感じていた。
「今日は親御さんはいらしていないのですか?」
「はい。一度私だけでお話を伺っておきたくて。契約とかになれば呼びますから」
「体調はいかがですか。私は素人なもので、どこに気を遣ってよいやらわからず申し訳ない。そういった面でも親御さんがいらした方が良いかと思ったのですが」
「平気ですよ。自分のことはちゃんとわかるようになりましたし、だから外に出してもらえるんです」
あまり真に受けるべきではないのかもしれないが。引っかかりはあれど、話をしないわけにもいかず。私たちは雑談に近いような会話を交わす。彼女が私を知るために、それから、私が彼女を探るために。ひとつ言葉を受けるたびに、感じていたズレが大きくなる。小説から透けて見える鋭く情熱的な彼女とも、日記のように公開されていた儚げで透明な彼女とも違う。あれが演技だというなら大したものだが、こうまで巧く欺けるものだろうか。語彙も感性も、似ているようで決定的な部分で異なっているような。
「君は、本当に井岡さん?」
ぽろりと落ちた問いは、声であるがゆえに拾うことなどできなかった。ましてや無かったことにもできない。
「やだな、井岡は私ですよ」
機嫌を損ねた風でもないことに、うっかり安心しそうになる。でも、と続けられた言葉を息詰まるような思いで待った。
「あの小説を書いたのは私じゃありません。そういう意味では、正解です」
「ゴーストライターって、事でしょうか」
「私が顔を貸したんです。だから、そうなんでしょうね」
今日初めて、画像では見慣れた切なげな表情を覗かせた。ぞっとするほど完成された微笑。とん、と音をたててグラスがテーブルに置かれた。注文したアイスコーヒー。店員の娘は、そのまま去らずに井岡さんの隣に掛けた。並べば、二人の年齢が大差ないことがわかる。その子は至って普通の、かわいらしい女の子だ。ただ、視線の鋭さが彼女の雰囲気を硬く見せている。
「私があの話を書きました。井岡さんを使って不誠実な真似をしたのは私がお願いしたからです。ごめんなさい」
能面よりも乏しい顔の動きに、抑揚のない声。あまり話すのは得意でないのだろう。端々に緊張が見える。だが、子供のしたことだからと許せることなのか。なるだけ穏やかに話そうとしたが、どうしてもなじるような調子になる。
「井岡さんの境遇を使って、反響を得ようとしたのですか」
真正面で井岡さんが勢いよく立ち上がった。右手が降りあげられる。平手打ち。衝撃を予知して、反射的に目をつむる。しかし痛みはいつまでもやってこなかった。斜交いの彼女が、手首を掴んで止めている。七分袖のブラウスから伸びた健やかな腕が目の前にある。そっと井岡さんを座らせて、彼女は己の首元に手をやった。しゃらりと金属のすれる音がした。金属製のネームプレートが差し出される。まさか、この子も。
「時間が無かったから。どうしても私のお話が、世の中に出ていくところへ立ち会いたかった。小説以外のものは全部、彼女が書いてくれました。それなのに、自分の書いたもの以外が評価されると悔しいと思ってしまうくらい自己中心的で」
彼女の目じりに涙が盛り上がる。井岡さんがそっと彼女の手を取る。
「私たちは本当のことしか言わなかった。井岡とわが二人でひとつの存在だってことしか隠してなかった。尾関さんだって、見た目で礼子ちゃんを定義したじゃないですか。だから私たちはこうするしかなかった」
凛と、しかし芝居がかった声色で。
「証明したかったんです。私たちには力があるってこと。二人なら何でもできる気がしてた」
井岡さんはなおも言い募る様子だったけれど、手をあげて制する。
「君たちは……」
いったん口を開いたが、続きを整理するのに多少の時間がかかった。
「それぞれ自分の名前で活躍したいとは思う?」
いつの間にか敬語は抜けていた。良くはないのだろうが、むしろ自分の子どもらに話すような気分であった。
「そんなの、叶うなら一人でとっくにやってます。効率を考えたらこれしか無かったんです。瞬く間に広がって、燃えてもいいから話題になる方法」
「むしろ私は、礼子ちゃんがいなかったら何か書こうとか思いもしませんでした。自分を何かで表現しようなんて」
「まず。君たちにはちゃんと力があるよ。不本意ながら見つけるのが遅くなったが、ぜひ手を掛けて、時間もかけて育てたい。君たちがそうせざるをえなかったのは、俺たちの責任でもある。正攻法だと時間がかかりすぎるし、世の中の人がみんな文芸に興味があるわけでもない。個人が作品を発表しやすくなった今、どんな作品であるかはもとより、誰が発信するかも重要になる。俺たちも流行っている作品を追っかけるので無駄に忙しいしな。償いにもならないだろうが、もしそれぞれで別の作り手として世に出る気があるなら俺が売り出す。正体を暴くことを許してくれるとして、の話だが」
彼女たちの切実さも感性も、会って話せば疑うべくもない。まさかこんな裏があるとは思わなかったが。しかしまだ、彼女たちは未熟な書き手だ。時間の許す限り、才能を引き出してやれたら。昔の血が勝手に騒いでいるだけだとしても、今は胸の高鳴りに身を任せたかった。
二人が頷いたのはほとんど同時だった。井岡さんは意外なほど強い瞳でこちらを見ている。言葉の失われたテーブルに「礼子ちゃん」の瞳からこぼれた涙の粒が、ぱらぱらと落ちた。完全な名前も聞かずにこんな強い物言いをした。大人げもなければ冷静さもないな。そういや、気づけば一人称が俺になっていた。まぁ、良いか。彼女は、否、彼女たちは俺が見つけた。自己満足かもしれなくても、おためごかしに過ぎなくとも、彼女たちに宿る熱が嬉しくてたまらない。
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