最終話[光と散る、その前に]
黄昏時のロータリーで、礼子ちゃんと一つの影をつくる。抱きしめた時の香りもとっくに日常に組み込まれてしまっていて、だからこそ名残惜しい。離れていく身体のかわりに、渡されたハードカバーの本を胸に引き寄せた。礼子ちゃんの言葉は、異例の速さで形になった。二作目は鋭意執筆中、らしい。ただ、私たちに残された時間からすればあんまり余裕のあることではなく。思いのほか進行が早かった私はついに光を散らすようになった。医者も匙を投げるに至り、退院して余生をのんびり過ごすことにした。家族を悲しませながらの暮らしに意味があるかはわからないけれど、愛は語れるうちに語っておかなくては。死ばかりが見えた入院生活だったわけで、教訓なんて大仰なものは一つとしてないものの。ひとりで、あるいはふたりで考えたことは無駄にしないつもり。ゆっくりと私を整理して、いっぱいに浴びた愛を私なりに返して。それくらいの時間なら、きっとまだあると思うから。車では彼が待っている。クラクションも鳴らさないで、忍耐強く。引きあう力を振り払って小さく手を上げた。
「またね……って言わない方がいいのかな」
「そうだね。じゃあ、外で巡りあえたらいいねとでも言っておこうか」
「うん、きっと会おうね」
ゆらりと立つ影には光が淡く宿っている。それが私のこぼしたものではないってことくらい、わかっていた。どこまでも駆けていけそうな健やかな体つきからすれば、信じられないことだけど。礼子ちゃんの中には溢れんばかりの言葉があって、それが思ったより遠くにまで届いたってことはすごく幸運なことだ。少しでも役に立てたなら、私も幸せだし。二人で束の間、世界の表側へ飛べた記憶を死ぬまで抱いていよう。長くないなんて、つまらない茶々は誰にも入れさせないで。
だけどまだ、夢から醒められていない気もしている。ううん、私は別の夢へ運ばれていく途中なのではないかな。ほどけていく身体、おとぎ話のような病。優しい彼。彼といっとき家族のように暮らすのを許してくれて、私をずっと、ずっと愛してくれる家族。おとうさん、おかあさん、おにいちゃん。想像もつかないような悲しみを、柔らかな何かに包み込んで私に悟らせまいとすることも、ただ終わっていく運命の私へ、生き延びる手段をまだ探していることも。私には重すぎるのかもしれないけれど、背負っていたい。これからの時間で、あったかもしれない未来を描こう。虚構だっていい。鮮やかに思い出を残して逝きたい。舞台は、私の生まれ育った家。役者は私、家族、それから彼。何があっても私だけはきっと、心から楽しんでみせるよ。胸の痛みは消えなくたって。
たとえば結婚式。真っ白でふわふわのウェディングドレス、赤い絨毯の敷かれたバージンロードをお父さんと歩く。にせものの誓いのキスもしたいな。新婚旅行のつもりで、どこかへ出かけるのも良い。二人っきりじゃなくて、家族全員で。それからありふれた日常のスナップを山のように撮ろう。テレビのチャンネル争いから、にぎやかな夕食の風景まで。空想にはいったんピリオドを打って、車に乗り込む。
「お別れは済んだ?」
「うん。最後にはしないつもりだし、ね」
「そうか。知り合ってすぐから仲良いもんな。大事にしなよ、必要ならいつでも車出すし……で、本当に直接帰らなくていいの? 疲れてはいない?」
「大丈夫。連れてって」
最終章の初めのページは、子どものころから何度も通った浜辺と決めている。観光地になるような美しい場所ではないのだけど、魚っぽい匂いも、とろりとした橙色の夕暮れも、私にとっては捨てられない記憶だ。病院を背に、車はゆっくりと動き出す。
「ねぇ、聞いた? 私の詩、出版されるんだって。しかもね、私のポートレイトが一緒に載るんだって。むしろ写真集みたいな作りだったよ。面白いでしょ。しかも聞いてびっくり、カメラマンは君のご友人であるところの彼だし」
「いつ出るの?」
ひと言に、不安がこもっているのを感じる。顔をさらす危険や、世の中の人にあれこれ詮索されるであろうことまで、きっと彼は予想している。
「心配には及ばないよ。出版は私が死んだあとにしてって言ったの」
何故、と彼は訊かなかった。話が飛躍したとも指摘しない。でも私は理由を告げる。
「私を知らない人に、私を都合よく理解されるのは嫌だったから。一見すれば悲劇なんだろうし、人はそういうのが好きなのも知ってる。まぁ、それなりに売れるんじゃないでしょうか。尾関さんもやり手みたいだし。ただね、私は私として終わりたいんだ。家族や友達や、木田くんが知っている私として」
「いなくなった後にあれこれ言われる方が厄介じゃないか? お父さんもお母さんも」
「いっぱい苦労かけたからね、お金でも。何か遺せたら嬉しいじゃない。それに誰になんて言われたって、私はみんなが知ってる私だよ。死んでもう触れられない人間への評価は、水面の月に何かしようとするのと変わらないから」
彼は軽くため息をつく。
「どうしてこうも、この病気に縁があるんだろうな。しかも自分じゃなくて周りがさ。どうせなら僕も連れてってくれりゃいいのに」
「駄目だよ。それは。ねぇ、窓開けていい?」
開けるから、と呟かれて、大げさにウィンドウから身を引く。さらさらと風が吹き込む。もう夜の空気だ。私の身体に触れた風が、光をまとって外に出て行く。流れ星めいた尾を引いて車は走る。私も、流れ星みたいに綺麗に消えられたらよかったのに。人はみな、生まれた以上は誰かの物語に干渉している。星の欠片のように軽やかに果てるのはどうしたって無理だ。せめて愛する人たちにとって、私の存在があたたかな光であり続けられますように。
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