第一話[行きずり]

 終電間際のホームに降り立ったのは僕らだけのようだ。線路一本挟んだ向こう側は住宅街で、ささやかな夜景がひと気のなさを引き立たせる。電光掲示板だけが場違いに賑やかな原色を走らせていた。岡屋は若干ふらつきながら最後方へさまよっていく。自殺防止の青色灯がうっとうしい。

「どこ行くんだよ」

 追いかけながらも、乾いて冷たい夜気を深々と吸い込む。こいつほどは酔っていないが、やや飲み過ぎたようだ。起床のリミットまではあと何時間だっけ。明日の一限は出席が厳しいのを思い出して憂鬱になる。まあ最悪落としても留年まではいかないだろう、たぶん。行き止まりには雑な柵が設置されていて、だまになったペンキがところどころ剥げている。薄暗くても錆が浮いているのがわかった。触れなくたって鉄臭い。だというのに岡屋は身体を柵に預ける。汚れても知らないぞ。そういうのは落ちにくいんだ。

 酒臭い息を吐きながら取り留めもなく話す。当たり障りのない内容を選びながら。授業がだるいとかサークル内で誰と誰ができているとか。岡屋は最近バイトを始めたらしい。個別指導の塾らしく、はじめて当たった生徒は可愛い女子高生だとかで鼻の下を伸ばしていた。ラッキーな奴。ふと視界の端に違和感をおぼえた。無意識に目が動く。後悔した。イコールの記号のように並ぶ二つのホーム、その対岸で若い女性が立っていた。髪の毛から靴の先まで黒一色。そんなことより重大なのは、彼女が光を放っていることだ。無粋な色の蛍光灯を浴びていてもなお、この距離でわかるほどの発光。牡丹雪くらいの星屑が彼女のまわりを漂う。そうとう重症なんじゃないだろうか。病人がこんな時間に何を。思考ばかりが加速して口がお留守になる。岡屋が沈黙に気づいた。僕の視線を辿る。

「あれ、消失病か」

 その呼び名は、人体に異常な発光が観測されはじめた頃に付いたものだ。光ることと消えることでは、消えることの方がより常識外れだったからだろう。お偉いさんが正式名称にしたのは光だったけれど、俗称としてはまだ廃れていない。すぐそばで金属質の低い軋みが響く。隣にいたはずの岡屋の背中が階段の方へ遠ざかる。

「おい。野次馬するつもりかよ」

「違ぇよ」

 ずいぶん足取りが確かになったじゃないか。僕らは地下の通路を抜けて、隣のホームへたどり着く。彼女は確かにそこにいた。僕らとそうは変わらない年頃。たぶん、二十歳そこそこ。遠目に黒づくめと見えたのは、どうやら喪服だった。黒いコートの下のかっちりしたスカートに、薄墨のストッキング、サテン張りの小さなバッグ、それからパールのネックレス。絶え間なく輝く粒子を生みながら、何もない夜空を見上げている。

「あの」

 岡屋が声をかけた。彼女の顔がこちらに向く。色白で、細い鼻筋を持つ儚げな顔立ちをしている。

「こんな時間に何してるんすか」

「そちらさまこそ」

「いや、単なる飲み会帰りっす」

「そうですか。私はお墓参りの帰りです」

 教科書じみた四角い言葉遣いより、墓参りという単語が引っかかる。こんな遅い時間に、付き添いもなく、かつ喪服で。切実な背景を嫌でも想像してしまう。ごまかすように僕も口を開いた。

「帰らないんですか?」

 我ながら配慮もへったくれもない問いだ。慌てて取り繕う。時すでに遅し、だとしても。

「すみません。ずっとそこに立っていたようなので、気になって。答えなくていいです。僕みたいな通りすがりの人間が訊くことじゃなかったです」

「別に。構いませんよ。帰ったところで迎えてくれる人もいないので。だからむしろ、お話に付きあってくださったら嬉しく思います」

「一人暮らしなんですか」

 驚きをもって聞き返す。誰にも気づかれないまま主人を失ったワンルームが脳裏に浮かんだ。もし家で最期を迎えたら、彼女の死が周囲に知れるのはいつになるのだろう。家族や知人が部屋に踏み込むのは果たしてどれくらい後か。散ってしまえば死臭もない。きっとあまりに静かに、きれいに消えてしまうのだろう。

「一人暮らしというか、ホテルを泊まり歩いています。先週まで入院していたのですけれど。家族みんな、事故で死んじゃったんです。もう結構前なのですけれどね。まさか置いていかれる側になるとは思っていなくて。びっくりして泣けもしないし、ずっと具合が悪くて。お葬式も行けませんでした。やっと落ち着いたらもうこんなに光っているわけです。一人は寂しいのでそれは良いとして、最後にお墓くらい拝んでこようかと」

 彼女が死に瀕しているのは明白だった。輪郭を光に溶かしながら、涙も見せずに微笑んでいる。決して楽しくも嬉しくもないのがわかってしまう、痛々しい表情。

「思い残すことなんてなかったはずなのですが、今更心細くなって空を見ていました。私がいなくなっても何にも変わらないのでしょうね。世界全部。もし、憐れんでくださるのならひとつ託されてくれませんか。私の生きていた証、みたいなものがあるので」

「もちろんっすよ。俺らにできることなら何でも。そのために声、掛けたんすから」

 食い気味に岡屋が言った。僕もうなずく。

「ありがとうございます。これ……どう使って頂いても構わないのですが」

 彼女はバッグからメモ帳を取り出した。ポケットに入りそうなほど小さい。開くと、柔らかい字が綴られている。ひとつひとつは短く、頭の中で音読すればリズミカルで瑞々しい。ふたつみっつと眺めるうちに、それが短歌であることがわかった。もしかして、とんでもないものを預かったのではないか。

「大事なものなんじゃないですか」

「だからお願いするのです。私には、時間がないから。ほら」

 強くなる眩しさに耐えられず、目をつむった。僕の頬が濡れるのは悲しみのためではない。次に視覚が拾ったのは、彼女のいないホーム。喪服とバッグが地べたに落ちている。布地の間に、銀色の札が覗いている。話には聞いたことがあった。患者が首から下げている管理用のタグ。これの回収をもってして、その人の死を決めるのだとか。うつむけば、僕の手にはメモ帳が遺されていた。

「木田。それどうしよう」

 岡屋の声は震えていた。なんだって今になっておびえているのか。覚悟がないなら関わるべきじゃないだろうに。とはいえ、妙案があるわけでもなく。

「どうもこうも、一回ちゃんと考えないと。酔った頭で適当に扱っていいもんじゃないだろ」

 ようやく改札に足を向ける。機械めいたアナウンスが最終列車の到着を告げた。

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