第二話[こんぷれっくす]

 鏡子がふにっとした指でキャンディの包みをつまむ。あたしの手のひらにそれを落とすと、眠たげにゆっくりとまばたきをした。

「おすすめ。限定商品だって」

「へぇ、ありがと」

 天使みたいな子だなぁ、という印象は出会った頃から変わらない。クラスで一番背が低くて、すべすべの肌に小動物っぽいクリンとした目。運動はあまり得意じゃなくて、おっとり優しい動きをする。

「で、どうなの? 新しい塾の先生。最近代わったって言ってたじゃん」

「うーん、まだ何回かしか会ってないからなー。あぁでもちょっとあほっぽいかも」

「先生なのに? なんか笑える」

「あほっぽいのが生まれつきなのか戦略なのかはわかんないけど。憎めなさそうな雰囲気づくりには成功してる、気がする」

「鏡子はふわっと喋るねぇ」

「未央ちゃんは擬態語が多いよね」

「思うんだけど、いつもあたしに対しては鋭い。刺さる」

「信頼してるからねぇ」

「あーそうやって甘やかすー。あたしダメ人間になっちゃうよ?」

「最後にはちゃんと突き放すから。いいの」

「結局崖から落とされるのかぁ」

「そこまでは言ってない」

 会話はふふふっていう笑い声で流れる。本当この距離感、好きだ。お餅みたいなほっぺたに出来たえくぼを見ながら思う。許されるなら、一日三回くらいはぎゅってしたい。そのとき、ぱちんと弾かれたように鏡子が席を離れた。狭い教室で、無駄に大きく手を振る。

「さーちゃん! いよいよ復帰?」

「キョウちゃん、久し振り。今回もしぶとく生還しましたよぅ」

 ドアの前でひらりと手のひらを揺らしているのは、背の高いショートボブの同級生。鏡子の幼馴染で、姉妹みたいに仲がいい。むしろ夫婦かな。さーちゃんこと佐倉ミサキはすごく自然に鏡子の隣に立った。それから、日本人離れしたなめらかさでハグをする。お互いの髪がすれあうくらい密着して。

「学校来たかったし会いたかったよ、もう! 最後の方暇すぎて死ぬかと思った」

「死ぬとか冗談じゃないって、さーちゃん。でも元気になったっぽくてよかった。絶対最後の方無理してたでしょ。授業中ずっと寝てたし」

「授業寝ちゃうのはもっと前からだって。知ってるっしょ?」

「度合いの話をしてるのっ。まったく人の心配を何だと思ってるの?」

 悔しいけど、佐倉さんと話している鏡子は可愛い。一生懸命で、まっすぐで。感情の振れ幅が大きくなるみたい。笑う時は涙が出るほど、怒るときは全身で。ジェスチャーもけっこう激しくなる。佐倉さんさえいなくなればあたしが一番の友達になれるのかなって想像したこともあるけど、それじゃ違うんだろうな。だとしてもやっぱり考えちゃうんだけど。

「未央サンもよろしくね。迷惑かけちゃうかもしんないけど」

 席が近いからか、鏡子の友達だからかはわからないけれど、佐倉さんはたまにこうやって話しかけてくる。他人行儀な呼び方はともかく、器の大きさの違いを見せつけられた気分。あたしだったら、自分と親友の間に割って入ろうとするやつなんて無視するけど。そういうとこがダメなのかな。それとも佐倉さんはあたしなんて目じゃないんだろうか。

 一時間目は理科で、視聴覚室で動画を見る回だった。暗幕をしゃっと閉めて、機器の電源を入れる。理科の係だから。チャイムが鳴った。先生がのっそり入ってくる。黒ぶち眼鏡、そんなにあか抜けない服装、やせ形で猫背。左手薬指に銀色の指輪。かっこいい、っていうかタイプなんだけど、誰にも共感されたことがない。いいもん、先生はあたしが独占するの。現実、先生は奥さんのものだけどね。ちなみに理科係は不人気。実験の準備を手伝わされたりするから。でもあたしにとってはご褒美。レジュメが回されて、淡々とした声が説明をはじめる。生物の進化について。ふぅん。

 教室のライトが消える。斜め後ろがぼやんと明るい。振り向かなくても何かはわかる。一番後ろ廊下側の席は佐倉さんの定位置。たぶん今も、広い肩を居心地悪そうにすぼめて座っているのだろう。入学直後に致死性発光症が見つかり、かれこれ一年半は入退院を繰り返しているらしい。本人は普通に生活することを望んでいるとかで、入院は本当に具合が悪いときだけ。だいたい、あの病気が根治するなんてありえない。だから、単に身体の症状をごまかすだけの治療なんだろう。鏡子の親友だからつい目で追ってしまうし、情報も集めてしまう。だから、あたしは佐倉さんが思う以上に彼女のことを知っているはずだ。先月、最後に学校に来ていた日。相当ぐったりしてたけど今日ほど光ってはなかった。進行、してるんだ。良くなってなんかないんだ。休み時間ごとに取り出される大量の薬を思い出した。純粋に悲しむことができなくて後ろめたい。喜ぶわけもないんだけど。好きって屈折しやすい感情なのかな。うまく付き合えない。やたら手の込んだCGで出来た古代の海をぼんやりと眺める。思考なんてない生き物にうまれたらよかったのかも。

 授業のあと、感想のプリントを持って先生にお供した。生徒は乗っちゃいけないエレベーターにも連れて入ってくれる。こういう特別感は最高。先生の服はいつもほんのりいい匂いがする。外国っぽい匂い。奥さんの趣味なのかな。あたしの知らない背景を想像するのは楽しくて切ない。初めから届かないってわかっていても。

 理科準備室はつんとした匂いがする。壁際の棚にはホルマリン漬けや分厚い本や、動物の頭蓋骨が並んでいる。そのどれもが少しずつ埃をかぶっていて、大昔の収集家の部屋みたい。机の上もプリントアウトやら本やら教科書やらでごちゃっとしていた。片付けはあまり得意じゃないのだと勝手に予測している。散らばる文章やタイトルを拾っていくと『致死性発光症』という単語が多い。誰か身近な人が罹っているのだろうか。それとも最近の出来事としてチェックしているだけ?

「いま置く場所を作るから」

 はい、とはっきりとした発声を意識して答える。良い生徒でありたいよね。ただ視線をあちこちに走らせるのはやめられなかった。どんなことでも知りたいんだもん。論文みたいな硬い文面ばかりの中に鮮やかな写真を見つけた。見覚えがある。昨日あたりから短文投稿サイトで話題になっているやつだ。致死性発光症だった女の子が書いた短歌。それに男子大学生が写真をつけてレイアウトして投稿したらしい。たしかにそれは儚くて、美しくて痛かった。でも、大騒ぎするほどのことなんだろうか。その子が死ななかったら、こんなふうにみんなに認められることはあったのかな。疑ってしまうのは、あたしがどうしようもなく普通の人間だから。誰かの特別にも、絶対的な孤独にもなれなくて、ただ一方的にひとを好きになるしかない。どうしたらいいんだろう。なんでもいいから特別になりたかった。あたしがあたしじゃなきゃいけない理由って、あるのかな。先生がこっちを見そうになったから、笑顔をつくっておく。

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