残響:マキナ・マギア・メロディカル

夏木 葵

EP1 それは限りなくささやかな

「音」が湧いた。それは限りなくささやかなものだった。数秒程漂って、都会の雑踏の中に消え失せた。いや、完全に、では無い。ささやかな「音」は、微かに「残響」した。






20XX年、東響トーキョー志部谷シブヤ

鳴河莉子ナルカワリコは、その群衆の中でただ一人、「残響」の存在に気付いていた。なぜ気付くことが出来たのか、などという理論的な説明は必要ない。単に、彼女が「そういう」体質だったからだ。さらに、掘り下げて言えば、彼女は「耳」が良かった。(もちろん、「聴力」が良いとかそんな簡単なことではなくて、こと「音」を聴き取る能力に長けていたということだ。)

彼女は、身に付けていたヘッドホンを耳から外し、首に掛けた。そして、渡りかけていた横断歩道を駆け足で渡りきり、比較的人通りの少ない場所で歩みを止めると、ゆっくりと目を閉じた。(彼女は、交差点の真ん中で歩みを止めるというような不可思議な行いを進んでするような人間では無かった。関わりのない人々を巻き込むことは好まなかったし、何より彼女は注目される事を嫌った。)


鳴河は息を殺した。自分の呼吸音など、さして作業の妨げになりもしなかったが、それが彼女のルーティーンだった。


「小…さいな…。消えちゃいそうだ。早くしなきゃ。」


鳴河はさらに感覚を研ぎ澄ませた。


「残響」は目には見えない存在であり、その上、常人には認知することのできないものである。「残響」は世界の中で様々な役割を果たしていた。人智の及ばない現象の、そのほとんどには、「残響」が関与している。

間一髪、衝突事故を免れた。なんとなく雨が降る気がして、その予感が当たった。そんな所謂「虫の知らせ」のようなものを、人間に感じさせているのが「残響」である。


「残響」には、比較的良い影響を及ぼす「善響メロディー」と比較的悪い影響を及ぼす「邪響ノイズ」の2種類が確認されている。


鳴河は立ち止まり、前方に手を伸ばす。いくら、目立つことを嫌っていると言ってもこの最終作業の瞬間はそんなことを気にしている余裕は無かった。それは、彼女が「この異常な体質」を持つ者として、まだ未熟であったからということもあるが、例えどんなに能力に長けた者であっても、「最終作業の瞬間」は少なからず意識を集中せざるを得なかった。


「残響」を捕らえる。文字通り手のひらで包む。タイミングは一瞬、機会は一度。それを逃すと、彼女たちは「残響」を見失ってしまう。まるで広大な雪原を逃げ回るユキウサギのように、その姿(視覚情報で捉えることができないのに姿という表現は不適切かもしれないが)はどこかに溶けるようにしていなくなってしまう。


「……ここ。」


鳴河の両手が微かにしっとりとした質感を捉える。彼女はその不可視の物質を徐々に左手の中に移動させ、自由になった右手でズボンのポケットから筒状の容器を取り出した。その中には緑色の液体が揺らめいている。


鳴河は左手の「残響」を容器の中に入れて、すぐに蓋をした。無数の気泡が踊る。「残響」は容器の中でその姿を現した。球体状の頭に小さな体を携えたそれは、さながらどこかの企業のマスコットキャラクターのようにある種親しみやすいものであった。


「よかった。メロディーだ。逃がしてあげなきゃ。」


鳴河は容器の蓋を開け、「残響」に脱出を促した。それはすぐにどこかへ消え去った。


「ふぅ…。」


鳴河は息を吐き出すと、再びヘッドホンを付け直し、歩き始めた。そんな、鳴河の作業の一部始終を見ていた一人の男がいる。


「鳴河…さん…?」






それは限りなくささやかな、されどこの上なく強かな物語の始まりを告げていた。











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