オルカラド王国(Kingdom of Olkalad)
第57話 飛び込む者
《前回までのあらすじ》
ルシアン帝国が本格的に侵略を始めた。オルカラド王国側に選択肢はない。
コヨーテらキバのメンバーのひとりであるレオニードが致命傷を負ったままアレクセイに連れ去られ、さらに国王であるリアム王もルシアンが潜伏させた刺客ヒョードル・プッチが部下たちを連れて迫っている。
もはや、一刻の猶予も許されない現実が彼らを追い込んでいた―
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思っていたよりも、綺麗で整頓された空間だった。天井から床まで届く大きな窓とそれを覆っていたであろう
既に換気がされ、漂う肌寒い空気に一瞬身震いした。
(ここで、レオニードがアレクセイと戦ったのか…)
その割には家具は整然と並び、そんな様子は微塵も感じさせない。
「ハルキ…」
「…?」
ダニールが黙々とさした指の先に目を向けると、その木工細工の施された机には水をこぼしたような染みがある。そこだけでなく見渡せば机側面、床の絨毯の色も所どころ変色していた。これは恐らく…
「血…」
こんなに至る所に流血の跡があるなんて、ほぼ殺人現場じゃないか。実際に見たことはないけれど。
「キース。ここで戦って…
広範囲に変色する床に手を当てていたコヨーテが立ち上がりながらキース宰相に尋ねた。ほかのキバの子たちも一見整えられた部屋を注意深く見渡して、その戦いのあとを感じている。部屋に入った途端、アリナは感極まって口を押えて涙をこぼしていた。
「あぁ。その約30分前にプッチは王を追って出た。」
「よし…キリル、ミカ、私で今からレオを追いかける。」
自然とコヨーテの周りに集まっているキバの面々を見渡し、彼女は迷いなく淡々と告げていく。
「…っしゃあ!腕が鳴るぜ…!」
「そんなもん鳴らすな。レオ救ってからにしろ、ミカ。」
緊張するどころか笑いすら起きそうな状況に、この集団の戦闘力の高さが垣間見れた。俺はひたすら高鳴る心臓の音が周りにばれないか心配してるっていうのに、彼らは全然なんともない。
「アリナとユーリは、キースと一緒にトミオカの援護。エレーナ、エル、ラスは、ここでルシアンと通じた者の洗い出し、オルカラド王族関係者を助け出したらオルカラド軍と合流、待機して。」
ん…?
気のせいじゃない。名前が呼べれなかった。
ダニールのほうを見ると、彼がコヨーテのほうに一歩前に出たのが同時だった。
「失礼。私とハルキは自由行動ですか?」
「あんた達は帰国すべきだ。」
コヨーテの代わりにキリルが簡潔に言い切る。
改めて俺とダニールのほうへ近寄り、コヨーテが微笑んだ。その笑顔を見ても、今は不思議と嬉しいと思えなくなっている。
「ここまで巻き込んで悪かった。アリナとユーリを救ってくれてありがとう。この恩と勇気は決して忘れない。」
「え…」
「あんた達は自由だ。あとはキースが何とか出国の準備を整えてくれる。完全に巻き込まれる前にトミオカと合流して逃げて。」
かけられていた梯子が突然外されたみたいだ。拍子抜けして、一瞬どういう顔をすればいいか分からなくなる。
危険は嫌だ。
このまま彼らと行動を共にしていたら、いつか本当に命に関わる危険と対峙しなければいけなくなるかもしれない。目の前にある水たまりのような形をした床の変色部分をぼうっと眺めながら拳を握りしめていた。
「ハルキ…?」
「逃げて、って何だよ…」
「え…」
すぐ近くにいたエルがこっちを振り返ったのが見えたけど、構わず続ける。
「約束…したじゃないか…
英語だったからダニールを介さずに直接伝わっている。エルが困ったようにコヨーテの顔色を伺っているのが視界の端で見えていたけど、それも無視して俺は続けた。
だって、今更だろ。俺は、キバたちを知りすぎてしまったんだ。
コヨーテの辛い過去まで聞かされて、それで自分たちだけ何とか安全に返してもらうなんて出来るわけがない。この国の人たちこそ、安全に逃げなければいけないんだ。現実なんだ。今、ここで起きていることは…!
「彼の意見を補足します。今は既にそんな状況ではない。あなた達だけじゃなく、この国の方々には時間がないのでは?」
ダニールの絶妙な補足に感謝しながらコヨーテの顔をうかがうと、黙り込んで目を固く閉じていた。迷っている。もう一言、と口を開きかけた時、キリルが一歩前に出た。
彼は真顔でダニールと向き合うと少し声を潜めた。何かを確認しているのか、いくつかの会話が済むとキリルは納得したのか頷いて俺の名前を呼んだ。
「ハルキ。君とダニールは、俺たちと一緒にレオと王の救出に同行してくれ。よし。みんな集合しろ…!」
(え…?)
さらりと言われたけど思っていた展開と違うぞ…俺は富岡さんの後方支援とか、この城に残って色々できる事を探すのかなって思って…ダニールのほうを見上げると、にこりと微笑み返された。彼がこうやって爽やかに笑う時はロクな事がないのを、俺は経験で知ってる。
「リョウの足を引っ張るのは悪いし、戦うには人手はあったほうがいい。頑張ろう、ハルキ!素晴らしい心構えで感心したよ。私も奮い立たされた。」
「ええ?いや、あのさ、ダニール…!俺は、てっきり…!」
「ほら、二人とも!早く!こっち来て!」
エレーナに声を掛けられ、いつの間にか組まれたキバたちの円陣に加わる。俺とダニールが加わるのを確認して、コヨーテが口を開いた。
「いい?私達は今日の為にここにいる。いいね、必ず全部、取り返すッ!」
彼女の言葉には何か魔法のような見えない力が込められているのかもしれない。何故なら、俺ですら何か役に立ってやるって気持ちになっているんだから。
肩に回されたキバの子達の手に力が一層込められるのを感じる。気がついたら周りと一緒に腹から声を出していた。
「応ッ!」
「おー!」
「応」
「おう!」
「うっしゃあ!」
「応ッ!」
「はい!」
「はい!」
「お、おう…っ!」
円陣の外で腕を組んで様子を見ていたキース宰相も近寄り、口を開いた。
「どれくらい無事で残っているのか分からないがオルカラド軍も君たちに加勢する。連絡は、態勢が整い次第
コヨーテは目配せして理解を示し、自分の太腿の外側に帯同していた小刀を引き抜いて状態を確認するとそれを素早く格納する。ちらりと去り際にキース宰相のほうを一瞥すると、彼女は悪戯に笑ってみせた。
「この状況、まとめられる?きっと今ごろ残党がオルカラド軍を掻き乱してるよ。」
「ああ。かなり混乱はしてるだろう。しかし…」
皆が不安げに見守るなか、キース宰相は悪戯な笑みを向けて跳ね返した。
「私が戻った。ほかに何か不安要素でも?」
ミカがひゅうっと口笛を吹く。キリルもにやりと笑いながらコヨーテに「先に行ってる。ミカ、一緒に来い。」と声を掛けるとミカを連れて足早に出て行った。
それを見送り、キース宰相はコヨーテに向き直る。
「良いチームだな。完成されてる。」
今度はコヨーテが照れたのか下を向きながら頷いた。
その表情が、すっと消えて影を落とす。その影は深くて、俺には彼女が何を思っているのか推し測ることができない。
「これ以上奪われてたまるか…よし、行くよ!」
コヨーテの呟きは、彼女自身の、奮い立たせるような号令によって打ち消された。コヨーテのあとにダニールが続き、それを追う。
(こんな時に富岡さんは何やってんだよ…!大体、一人きりでこんな危険な中に飛び込んで行くなんてどうかしてる…!)
始まったんだ。
そして、俺も今なぜか彼らに遅れを取らないよう駆けている。重苦しい空気の城内から再び外へ出るとキンとする寒さの混じる風に身が引き締まった。
「安心しろ。」
「え…」
軽々と馬に飛び乗りながらキリルが自分に笑いかけている。
「あんた達は記録係だ。無理なんてさせるつもりはない。守ってみせるさ。」
「キリル…!」
なんて心強いんだ…!
あぁ、ひとまずこれで安心…
「いざとなったら無関係を貫け。捕まったら知らない、で通せばいい。よし、出発だ!ミカが先頭、俺が
結局、それしかないんじゃないか!
俺の心の叫びなどお構い無しに、キリルは偵察から戻って来たミカのほうへ真剣な面持ちで向き直る。ミカは森の中から飛び降りてきて俺たちの目前に軽々と着地した。
(なんて脚力してんだよ…!)
唇の端を噛みながら、ミカはその細い首を振る。
再び目の前に広がる大きな森を抜け、アレクセイに連れ去られたレオニードを取り戻す為、彼らのわずかな痕跡から追いかけようとしていたが、ミカの表情を見る限り、それも厳しそうだ。
「悔しいけど、ダメだ…何もないよ。」
「レオが痕跡を何も残してないって事はかなり状況は悪いな…」
「あぁ、時間がない。アリナを連れていくしかないか…」
「分かった。」
キリルが馬上でキース宰相から預かっている非常時用の内線でアリナへ連絡しようとした時、ダニールがそれを制して前に進み出た。
「恐らく、アリナさんと同様の力が私にもある。私にやらせて下さい。」
ダニールは、返事を待つことなく先頭を務めるミカの跨る馬を通り過ぎて森の入り口の前まで駆けると立ち止まる。一度立ち止まったあと、あたりを探るように森の中へ入っていき、そのまま姿を消した。
「ダニール…」
「おい、彼は何を…」
「
キリルの呟きにコヨーテが俺たちのほうへ即座に声を掛ける。
「追いかけよう。あの森の入り口で間違いはなさそうだ。」
キバたちの利口な駿馬と共に一斉に城を出発した。俺も彼らに習って馬を走らせる。森の入り口まで辿り着いた時、ダニールも姿を現した。
「方向は分かった。私が先導しよう。」
ダニールは一切笑うことなく、ミカが連れてきた誰も乗っていない馬に飛び乗ると、率先して先頭に立つ。
「彼らは恐らく途中で馬か車か…何かしら移動手段を変える筈だ。急がないと手遅れになる…!」
「よし、じゃあ走順を入れ替える!ダニールが先頭だ。ミカはそのあと、私がハルキの横につく。出発!」
ダニールはコヨーテの言葉に頷き、馬の腹を蹴った。
「はっ…!」
森の中へ入ると来た時に通った道ではないことに気が付く。故意なのか、アレクセイの使っている経路は、ルシアン帝国への最短ルートではなく、迂回するルートだった。その理由の分からない経路が不安を掻き立てる。
「あんたの仲間、大したもんだね。」
「え…?」
駆けながら、コヨーテに声を掛けられた。
「あたし達もそこそこ鼻はきくほうだけど、アリナ級は初めて見るよ。あの男は何者なの?あんたのボディガード?」
「え…いや、案内役というか…俺もこの旅で初めて会ったから…よく分からないんだ。」
「出会ってから一度も隙を見せてない。正直、味方で良かったよ。」
「へ…」
激しく揺れる馬上で、改めて遥か先を走っているダニールの背中を見つめる。確かに臆せずに先頭を走るなんて、なかなか出来る事ではないだろう。
「全く気が付かなかったな…」
「……それで良いんだよ。あんたの国が平和だって何よりの証拠だ。」
何も気が付けない自分に落ち込んだのを見透かされて励まされてしまった。何か返そうと口を開きかけた時、ダニールが急停止していた。
「どうした…?」
「ここで彼らの匂いは切れてます。」
ミカが間髪入れずに飛び降りると、地面をくまなく見つめて確認していく。どんどん離れていくのを見守っていると、少し先で明るい声を上げた。
「引きずって…あったぞ!タイヤの跡だ…!あいつら車で移動してる。」
キリルもすぐに追いつき確認している。指で手早くサイズを確認して舌打ちする。
地面にくっきりとついた太いタイヤ痕は、妙に生々しく、アレクセイの存在を浮き彫りにしていて心臓がすっと冷たくなった。
「ルシアンの戦闘用四駆だ。急がないと追いつけない…行くぞ!」
キリルの声にミカは自分の馬に飛び乗り、体勢を整える。
「微かにオイルの匂いが混じってるので追跡はしやすくなりました。行きましょう…!」
「あぁ。今度こそ…捉える!」
「レオは連れて行かせねぇ!」
ダニールの声にコヨーテも頷き、馬の腹を蹴る。この優秀な馬たちに懸かってるんだ。俺も祈るような気持ちで強く馬の腹を蹴った。
力強く、馬たちは嘶きながら再び駆け出す。コヨーテたちは駆けながら、それぞれが顔を空に向けて突然大きく啼いた。
(なんだ…?何をしてるんだ…?)
ダニールと一瞬目が合う。恐らく彼も同じことを思っているに違いない。
この啼き方―まるで獣の…狼の、遠吠えだ。
ウォォォ…ン……ウォォォウォォォ…ンッ
不思議な事に、コヨーテもミカ、キリル…それぞれが違う声色を出している。わざとなのか自然とそうなっているのかは確認する余裕もなく、彼らに遅れないよう必死で手綱を離さないよう強く握りしめる。
この彼らの本物と変わらない獣の様な啼き声は、空気を切り裂いて響く。
だから、この時の俺は気付くことはできなかったんだ。彼らが、何の意図で全員が狼のように啼いたのかを。
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