ヨヨパの国

ヨヨパの国

 非常に平和だった。ここはどこぞの国道で、走る車は自分のもの一つだけ。どこまでも果てしなく道は続き、遥か先まで一本道だった。景色は見渡す限りの草原で、ポツンポツンとその中に丘があった。ここがどこだったかも分からない。ただただ気分が良いということだけが確かだった。

「気分が良いなぁ」

 私は言った。それだけだった。何も考えたくはなかった。何を忘れているのかも、何から逃げてきたのかも考えたくはなかった。前まで居たところはとにかく苦しかったということだけが思い当たった。苦しいのは嫌だった。どうにもならないのは嫌だった。自分の日常や取り巻く世界が息苦しいというのも嫌だった。今あるのはただ気分が良いということだけだ。それだけで良いと思ったのだ。

「もっと遠くへ行かなくては」

 私は思った。もっともっと何もかも忘れるくらい遠くへ行かなくては。苦しみのないところへ行かなくては。平和な国へ行かなくては。そう思った。

 そうこうしている内に前方に何やら建物が見えてきた。それはどうやら道の駅だった。私はもう随分走ったし、休憩にしようと思いそこに入ることにした。パーキングエリアには車がなかった。ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったのだ。きっとこの道は誰も走っていないのだろう。だからこの道の駅も空き空きなのだ。

 車を降り建物を見る。そこには『道の駅 ヨヨパ』と書いてあった。『ヨヨパ』というのがここの地名らしかった。建物は簡素なものでトイレとちょっとした販売コーナーがあるだけだった。レストランらしきものはない。

「ヨヨパってどこだろう」

 私は思った。そんな地名は聞いたことがない。アイヌの言葉でも、琉球の言葉でもなさそうだ。ただ、現実から逃げ出したい一心だったので自分がどれほど走ったのかも分からなかった。一体ここはどのあたりだろう、と思って。そんなことは考えないでおこうと思い直した。もう、どうでもいいのだ。

 トイレを済まし、販売コーナーに入ってみる。そこにはお菓子やおにぎり、そして特産品が並んでいる。野菜や漬け物が主だ。あとは定番のクッキーやまんじゅうなど。しかし、別にヨヨパのものではなかった。色々な地域のおみやげが並んでいる。そして店員が一人居た。女だった。割りと綺麗な女だった。店員らしいエプロンを着け、しかし、頭にはレースというのかフードというのか、布をかけていた。ヨヨパの伝統衣装だろうか。

 私は飲み物とガムを手に取りレジに向かった。特に話すこともないのでただ商品を渡す。ここがどこか聞こうかとも少し思ったが、その考えを振り払う。考えてはいけない。

「こんにちは」

 女は言った。店員にしてはフレンドリーなものだ。

「こんにちは」

 私は返した。女はそのまま続けた。

「ヨヨパに来られるなんて、大変な思いをされたんですね」

「はぁ、ひたすら車で走ってきまして」

 私は答える。

「もう、あちらにはお戻りにならないのですか?」

「はぁ」

 女は妙なことを口走る。いまいち何を言おうとしているのか掴めない。

「それはちょっと分からないんですけど。まぁ、とりあえず走ってます」

「あら、それは困りましたね」

 女は言った。口に手を当てて困ったしぐさを取る。

「何が困るんですか」

 私はたまらず聞いた。もうなにもかもどうでも良い気持ちだったが聞かねばならないと思った。

「この先に行ったら戻れませんよ」

「え? 通行止めかなにかなんですか?」

「いえ、この先はヨヨパの国ですから。入ったら出られませんよ。知ってるでしょう」

 女はますます妙な事を言った。

「ヨヨパの国? なんですかそれは」

「あなた、ひょっとしてヨヨパの民ではないんですか?」

「はぁ、良くわかりませんが埼玉出身の日本人ですよ

 女は私の言葉を聞くと顔色を一変させた。

「困りましたね。たまに居るのですよ。あちらの人が迷い混むことが」

「どういうことですか?」

「この先は日本ではないですよ。ヨヨパの人間だけが行けるヨヨパの国なんです。この道はヨヨパからあちらに行っていたものが通る道なのですよ」

「はぁ」

 私は言った。なにがなにやら良く分からなかった。女が自分をからかっているのだろうかと思われた。私は良く分からなかったがとりあえず聞いてみる。

「そのヨヨパの国っていうのはなんなんですか」

「ヨヨパはヨヨパです。綺麗な丘に囲まれて、年中気持ちの良い風が吹き抜ける国です。風車が回って、電車の音が響いて、子供たちの笑顔が溢れています。争いもなく、人々はお互いを思いやって暮らしている平和な国です。貧乏人も差別されるものも居ません。良い国ですよ」

「へぇ、日本より良さそうだ」

 私は頷いた。聞いている話では日本よりもずっと良さそうだった。現実よりもずっと良さそうだった。

「あなた、元居た場所がお嫌いなようですね」

「まぁ。わかりますか」

「ヨヨパにやって来るのはそういった方々ですから。元居た場所から遠く遠くへと向かった人が辿り着くようです」

「ははぁ」

 私は今だ半信半疑だった。いや、どちらかというと信じてはいない。しかし、良く考えれば外の景色も日本のものとは思えないような気もした。

 と、その時だった。来客を告げるメロディが響いた。見れば中年の男が入ってきたところだった。男はおにぎりを一つ取るとレジにやって来た。私は場所を空ける。男は手を上げて謝意を示しながらレジ台におにぎりを置いた。

「こんにちは」

 女は男にも声をかけた。

「こんにちは。景気はどうだい」

「ちょくちょく人は来ますよ。ヨヨパに帰るのですか」

「ああ、あっちは大変でね。帰ることにしたんだよ」

 男は小銭を取り出しながら言う。

「みんないがみ合ってるし。ニコニコしてても心の奥じゃ黒い感情を持ってる人ばっかりさ。争いばっかり起きるし、常に誰かが虐げられてる。ヨヨパじゃ考えられないよ。俺も働いてたんだけどね。『使えない』って毎日毎日なじられてね。街じゃ警察に止められるわ柄の悪いのに絡まれるわ、とにかくひどいところだ。色々耐えられなくなって帰ることにしたんだよ」

「そうですか。大変でしたね」

「ああ、大変なところだった。ヨヨパの方がずっと良いよ」

 男は笑っていた。そしてふいに私に目を向けた。

「あんたもヨヨパに帰るのかい?」

「いえ、この方はあちらから迷いこまれたそうです」

「あらら。だったらあんたもあっちが嫌になった口かい」

「ええ、まぁ」

「そうだよねぇ。あっちじゃ良いことなんてなにもないからねぇ。これを機に移り住んだらどうだい」

「ははぁ」

 私はなんと答えたものか分からず適当な相づちを打った。そして頭を掻く。女は何も言わなかった。

 と、その時だった。低い大きな音が外から響いてきた。なんと形容したら良いかは分からなかった。少なくとも今まで聞いたことのない音だった。

「おんや、お迎えか。丁寧なこった」

 男は清算を済ませておにぎりを取ると外へ出ていった。私も音の正体を確かめるべく外へ出る。

 それは空に居た。浮かんでいたのだ。それは巨大だった。巨大な巨大な巨人だった。全身が真っ白で、凹凸のない体、そして顔はのっぺら坊だった。それが空一杯を覆うように浮かんでいた。どれほど大きいのか分からない。遠近感が狂ってしまう。

「あ、あれはなんですか」

 私は思わず男に聞いた。

「ん? ああ、あっちに居たんじゃびっくりするわな。あれは『ヌペ』だよ。ヨヨパを守ってるのさ。まぁ、守り神みたいなもんだな。俺が来るって伝えてたから迎えに寄越したんだろう。ここまでしなくってもいいってのに参るねまったく」

 男は笑う。

「さて、行くとするか。お兄ちゃんも住みたいんならヨヨパは歓迎するだろうさ。いつでも来ると良い」

 男はケラケラと小気味良く笑うと車に向かった。そして、車を走らせ、駐車場を出ていった。そうすると、『ヌペ』と呼ばれた巨人もぐるりと旋回し、男の車に付いていった。動きはゆっくりとしたものだ。それだけ巨大だということだろう。

「これで信じていただけましたか」

 気づくと女が横に立っていた。

「はい」

 私は答える。もう、ヨヨパの存在は疑いようがなかった。どうやら本当にあるらしい。そんな風な夢の国が。

「入ったら本当に出られないんですか。あのおじさんは向こうに行って帰ってきたんですよね」

「子供の頃に向こうに行かれた方ですから。大人になってヨヨパに入ったものは出られませんよ。そもそも出ようと思う者も居ないんでしょう」

「話の通りならまるで理想郷でしょうからね」

 私は言った。

「戻るのなら戻った方が良いかとも思いますよ。残してきたものもたくさんあるでしょう」

「残してきたものですか...」

 ここから先に行くと、本当に夢の国に行けるらしかった。そして、入ったら最後だという。もう、今まで居た現実には戻れないのだ。

 そういった、おとぎ話の夢の国が眼前に迫ってようやく私は現実に目を向けることができた。

 何をやっても上手くいかない現実。馴染めない大人の社会。辛い仕事。付き合うのが苦しい同僚たち。そして、それらはまるで終わる見込みもない。きっと死ぬまでそうであろうと思われた。

「ご友人やご家族も居られるのでしょう」

 女は優しい声で諭してくれた。

 そうだった。私にも少ないながら友人が居た。慎ましやかな家族も居た。友人は学生時代からの付き合いだ。辛いときも付き合ってくれた。一緒に遊んでいると実に楽しかった。

 家族も良い家族だった。いつだって私の側に寄り添ってくれたのだ。今の悩みも話したら聞いてくれるだろうか。どれだけ助けられたか分からない。

「心残りがあるなら戻った方が良いと思いますよ」

 女の言葉が頭のなかで響く。左手に目を向けると遥か彼方まで道が続いていた。あの先にヨヨパの国があるのだろう。向かえば着く。そこへ行くには残してきたものを捨て去らねばならないのだ。

 そして私は言った。

「私はヨヨパの国へ行こうと思います」

「...そうですか」

 女は目を伏せて言った。

「心残りはないのですね」

「はい。あんなところへはもう、戻りたくない」

 私はもう、苦しいのは嫌であった。家族や友人を置き去りにしてでも、もう現実に戻るのは嫌だった。あそこは苦しすぎた。あそこは寂しすぎた。手に入れたものがこぼれ落ちていくのをただ眺めるだけの日々だった。もう、戻りたくはなかった。

「なんだか、ありがとうございました」

 私は女に言った。

「いえ、私はなにもしていませんから」

 女は目を伏せていた。どこか辛そうだった。

 私は女に一礼すると車へ向かい、そして走り出した。パーキングエリアを後にする。女が私を見送っていた。私はまた一礼して道へと出た。向かう先はヨヨパの国だ。この道をまっすぐ行けば着くのだ。

「みんな、ごめんよ...」

 私は気づけばそう漏らしていた。

 そしていつの間にか大きな低い音が鳴り響いていた。上を見れば『ヌペ』が私を迎えに来ていた。




 女は男を見送り走り去っていった道を眺めていた。

「ああ、また一人行きましたか」

 女は言った。女はここ最近ああいった人を多く見送っていた。『あちら』からやってくる一般人だ。数はこの数年間でどんどん増えていた。今までもやってくるものはたまには居たのだ。しかし、みんな女が諭すと帰っていった。夢の国が目の前にあっても、やはり元居た場所を捨て去れないのが人間だと女は思っていた。やっぱり最後には立ち向かって、一生懸命に生きていくのが人間なのだと思っていた。しかし、最近はそんなこともないようだった。来た者たちは皆、ヨヨパの国へと行ってしまった。ヨヨパの国が夢の国なのは事実だ。ヨヨパの民が良い人間ばかりなのも事実だ。

 しかし、女は向こうも悪いところではないと信じたかったのだ。しかし、今や違うのかもしれなかった。もしくは、そこで暮らす人の考え方が変わってしまったのか。

「何故でしょうね。ヨヨパは良い国で、そこへ向かうのは良いことなはずなのに、悲しいと言うのは」

 女はそう呟いた。

 景色は清々しかった。見渡す限りの草原で、数えるほどの丘がその中にそびえ、空は晴れ渡り風は涼しかった。実に実に良い景色で、眺めているだけで心が洗われるようだった。

 そして、また道の彼方から車が一台走ってくるのが女には見えた。

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ヨヨパの国 @kamome008

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