あまりにも脆い、ビオスフィア

myz

あまりにも脆い、ビオスフィア

 覚醒の感触はあまりに曖昧で、ユーヴィクがまず感じたのはあやふやな赤い

 それが視覚から来るものだということも、しばらく判然としなかった。

 気づく。

 花!!

 ユーヴィクはそう叫んだつもりだったが、かひゅ、と湿って掠れた吐息が漏れただけだった。

 そして、猛烈な寒さ。耐寒・耐汚染加工された特殊仕様の重層スーツごしでも身体を切り刻むような苛烈な寒気が、風雪を伴ってユーヴィクの周囲を吹き荒れている。その痛みがユーヴィクの意識を明瞭クリアにさせる。

 ――守ろうとしたのだ。

「おお……」

 そして、それはささやかだが果たされた。

「おお……」

 喉を震わせるこの感情が何なのか、ユーヴィクには名付けることができない。

 スーツに身を包み、跪拝きはいする――祈りにも似た姿勢――ユーヴィクの胸元には鮮やかな赤い花が、一輪その姿を保っていた。

 それを風が襲わないように、覆い被さった姿勢のまま、ユーヴィクは慎重に頭を巡らし、周囲を伺う。

 白、白、白、一面の白。大量の重金属元素と放射性物質を孕んだ死の漂白だった。

 昨日――それとも一瞬前?――まではここに、一面の花畑があったのだ。

 ユーヴィクは名も知らない、しかし可憐な赤い花の群れ。

 灰色の瓦礫を乗り越え、突如広がったその景色に、ユーヴィクが感じたのはなんだっただろう。感動、歓喜――そんな言葉では言い表せない。ただ、ユーヴィクは腹の底からの咆哮ほうこうを上げながら瓦礫の丘を駆け下り、赤い花畑を踏み荒らし――それがなんだ! ここにはこんなにも、花、花、花が、赤い――その只中に倒れ込んだ。

 前世紀――世界があらゆる核と重化学と生体兵器の混沌の坩堝となった時代――その最後の時期、ついに決着の時が来るのが避けられないとなったとき――それはとりもなおさず一度すべてをにするということだ――ユーヴィクの国――国家! なんと無為な響きだろう!――が望みを託したのが、あらゆる汚染環境下でも生存可能に調整アジャストされた人類を生み出すという企画プロジェクトで、そのひとりが――くそったれなことに――ユーヴィク自身であるということだった。

 そうして、世界には瓦礫だけと、死ねない子どもたちだけが残された。

 徒党を組んだこともある、世界を再び蘇らせるという理想を語り明かしたこともある。

 だが、すべて駄目になってしまった。仲間はひとり去り、ふたり去り、ちりぢりになった。

 その頃のユーヴィクには何がいけなかったのかわからなかったが、いまではわかる。

 この世界には、もう何も残っていない。取り戻すことのできる何かは、すでに失われてしまっていると、みんな気づいてしまったのだ。

 そう、思っていた。

 だが、この胸におこる感情はなんだろう。

 赤い花に包まれて、ユーヴィクは思う。もしかして、これが――希望という感情なのだろうか。

 赤い花とあたたかな感情に包まれて、ユーヴィクは唯々ただただ空を見ていた。

 塗りこめたような灰色の空がそのときだけは、かすかに色づいて、何かの生気ある影さえもが視界に過ぎるようですらあったのだ。

 だからこそ、それに気づけたのかもしれない。

 のっぺりとした灰色の空の端、かすかに黒く色づいて忍び寄る靄を認めて、ユーヴィクは体を跳ね起こした。

 嵐が来る。

 雪嵐ブリザードが。


 そしてユーヴィクは、花畑の中央で、そっと一抱えの花へ自らを覆いとした。

 時間の感覚はすでにない。気絶するように一度眠りに落ちて、それが一瞬の間だったのか、一昼夜を超えるものだったのか、もうわからない。

 風雪はいよいよ猛烈に吹き荒れ続けている。

 だが、それがなんだというのだろう。

 胸元には、赤い花。

 ユーヴィクは笑った。

 罅割れた亀裂のような笑みでも、ユーヴィクはたしかに笑っていた。

 嵐は、まだ止まない。

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