エピローグ

 綴はエレベーターに乗ってAT社の地下中枢へ向かっていた。

 普通こんなことは絶対にありえない。いくら物倫であろうと、AT社の最深部はトップシークレットで、どんな方法を使っても足を踏み入れられない絶対の領域だ。

 それなのに、綴はあろうことかもう少しという所まで迫っていた。

〈AT社に来い。話は通してある〉

 そう、ツィーリエから連絡があったのだ。最初はケリィの事件処理へ駆り出されるのかと思いきや、受付で名前を出すと、少し待たされ、壮年の厳つく皺の濃い大男が出て来た。そのまま最深部へ直通のエレベーターまで案内されることになる。 専用エレベーターは特殊な手順を踏まなければ起動しないようで、大男がしばらく入力した末にようやく綴を招き入れたのだ。最初困惑していたが、大男はエレベーターの外でじっと綴を見送るだけで、その時点でなにかあると覚悟した。

 随分と地下へ降りた後、ようやく到着した。

 AT社の最深部で待ち構えていたのは、ツィーリエと三好ケ丘だった。全く想像していなかった組み合わせで正直驚いた。

「二人は知り合いだったんですね」

「元々物倫は、情報軍と呼ばれていた時に、それを受け持つ世界統合政府とAT社の虚構研が共同して設置した公的機関だ」ツィーリエはため息を吐く。「私が虚構研を出入りしていた頃、よくやり取りしていたのが玄幸の両親で、彼が母親の腹にいる時から、ずっと見てきたのだよ」

「こっちの話はいいじゃないですかぁ」三好ケ丘がばつの悪そうな顔をする。

 前回の時とは違い、こちらを警戒するような雰囲気は一切なく、フランクさに綴りは軽い驚きがあった。「って、ツィーリエ――あんた、どれだけ生きているんですか」

 ツィーリエの外見は幼い。骨格レベルで瑞々しいのだ。ゲノム技術でも使ったのだろうか。

「私の歳の話なんてどうでもいいんだ」ツィーリエは持て余していた両手を白衣のポケットへと突っ込む。「今回の件、ご苦労だった」

「えっと……どうも」綴は唐突な労いに動揺する。

「君がケリィの呑まれた時は、正直に言おう、実に焦った。君の痕跡は失われるし、これは秘密だが、ショウコが本気で泣いて連絡かけてくるし、なんというか最高に笑った」

「結局、楽しんでいたんじゃないですかぁ……」玄幸もツィーリエにつられ、笑みを浮かべる。

 だがそんな二人を見て、綴は警戒する。「あんた、なんで俺が呑まれた瞬間のことを覚えているんだ?」

「あっ、しまった……」ツィーリエは珍しく動揺していた。「一体なんでだろうねぇ」

「あんたも――」

 虚構存在なんだろう?

 綴は言葉を飲み込む。ツィーリエがあえて語らないなら、訊かないほうがいいのかもしれない。いや、綴が問い詰めないのも計算に入れて、あえて断片的に情報を与え、今回の報酬だぞ、といっているのだろう。そう思う。

 ただ、長年の謎が解けて、綴としては満足だった。彼女が人間だろうと、そうでなかろうと、あまり綴には関係なかった。

 ツィーリエは神妙そうな顔つきになる。「虚構存在が確認されて以来、AT社はそれを作ることに躍起になった時代があってな。主に大戦時代なのだが、ケリィ・エンハンスは、大戦末期の実験で生み出された虚構存在だ。欠陥だらけだったが、逆にそれがAT社にとっては都合が良かった。物語を生み出し続ける奴隷だよ。なぁ、玄幸?」

「そのことについては、私ではどうにも出来ない問題ですからぁ」

 綴は、ケリィが口にした、「作家であり続けるためだ。俺の価値はそれだからだ」という言葉を反芻していた。もし本当にケリィがAT社に生み出された欠陥虚構存在だというなら、際限なく物語を生み出し続けなければならない自分の運命を呪い、スランプによって存在価値を失った自分自身を呪っていたのかもしれない。そう思うと、仄かな怒りを覚えた。

 結局、AT社とそれを放置した物倫が悪いんじゃないのか?

 とは口にしなかった。そんなこと言わなくても、この二人は綴がいまどのように感情を揺さぶられているのか分かっているはずだ。もしかしたら、それすら楽しんでいるのかもしれない。

「ただ、あの全てを、本当にケリィがやったのだろうか」

 もしかして、ケリィも既に喰われていたのではないだろうか。

 庭園、車椅子、自分の意識に割り込んでくる言葉、それらがどんな記憶よりも鮮明に蘇る。

「まるでなにか見てきたような口ぶりだね」彼女は綴の答えを待たず、考えを振り払うように首を振り、「いや、小細工はやめよう。会ったんじゃないか、橘章子に」

 あれを邂逅としていいのだろうか。

 そもそも、あれは橘章子だったのかすら分からない。

 綴は時間が経つにつれ淀んでいくこの感情を、どう伝えるか逡巡した。しばらくの間黙り込んだ末、「彼女はいたような気がします」そうひねり出した。

「十分だ」ツィーリエは玄幸へ目を配らせる。「ほら言った通りじゃないか?」

「と、言われましてもね」玄幸は苦笑いする。「こっちは実感がないんですから」

「綴、もう今回のことは忘れたほうがいい」ツィーリエの瞳に憂いが浮かぶ。「彼女は自殺した、もういない」

「章子は自殺なんてしていない!」気が付けば叫んでいた。これほどの激情を発したことに一番驚いているのが綴りだった。「章子は生きようとしていた。それは間違いないです」

「彼女は自殺した。もう忘れろ」ツィーリエの口調は綴を窘めるようだったが、眼は明らかに嘘を吐いていた。

 三人に、重い空気がのしかかった。

 誰も口を開かず、各々の視線は空気中を彷徨っていた。

 少し居心地が悪くなり、そろそろ帰ろうかと思ったが、綴は一つ聞かなければならないことがあった。

「俺はなぜ、ここに呼ばれたんですか?」

「綴、君に話しておきたいことがある」ツィーリエがいつになく真剣な眼差しを綴へ向け、重々しい声音で続ける。「世界から、現実というものが失われつつある」

「現実が失われる?」

「曖昧な話で申し訳ないね。現実をどう定義するかにもよるが、事象に客観性を持たせるには、観測者が一人では駄目だ。多ければ多いほど、その現実は強度を増す。だが、近々現実が脆弱になってきている」

「虚構存在ですか?」

「そう、虚構存在は現実を歪めてしまう。それは人間の現実……いや、リアルというべきか、それが脆弱だからだ。所詮、君たちが認識する世界は本当の感じているものではなくて、ニュートラルネットワークが情報を交換することによって生じる、空虚で、豊かなものだ」

「もしこのまま、世界のリアルが弱まっていけば、一体どうなるんですか?」

「君は呑み込まれて、じかに味わったのではないか? 客観が失われた世界を。リアルが多重に重なった世界を」ツィーリエは空中ディスプレイにケリィの情報を転写する。「ケリィ・エンハンスは、まだ人間に近かった。だがもし、新たな虚構存在が生まれ続け、人間の現実がリアルではなくなったら、その時、私たちが正しく、確かに、世界を認識できるのか分からない」

 玄幸が苦笑いする。「少なくとも、私には自信ないですね」

「なぜ、この話を?」綴はあまりの息苦しさに呻くように続ける。「俺にどうしろと言うんだ」

「そんなことは自分で考え、自分で決めろ」口調は強かったが、ツィーリエの表情はどこか申し訳なさそうだった。「いつか、そう遠く無い日に、選択を迫られるかもしれない。だが少なくとも彼女は戦おうとしているぞ」

 ツィーリエはそう口にすると、外見と年相応な無邪気な笑みを浮かべた。


 AT社から出ると日が暮れていた。

 綴はいまさっきのツィーリエたちとのやりとりを反芻していた。

 冷静に考えても、綴が関わってどうにか出来る問題ではない。そう思い、毒のように全身に回る不安を振り払う。

 すると眩しいライトが煽るようにこちらへ向けられた。綴は目を細め、そちらを見ると、路肩に止まっている車のボンネットにショウコが座っているのを見つける。こちらが気づいたのが分かると、ショウコは煽るのを止めた。

 車まで歩いていき、「なんだ、迎えに来てくれたのか」

「はぁ? 私は夜風に当たりに来ただけなのですけど……あんたと会うなんて、今日も最悪の日だわ」ショウコは不貞腐れたように口を尖らせ、体育座りをすると、自らの腿に口を埋めた。「まあ折角だから、車に乗せてやるわ」

「それは、どうも」綴は苦笑いして、「今日は俺が運転席に座ろう」

「あんたの運転へったくそじゃない……」ショウコが顔を引き攣らせる。

 同じことを言いかえしてやりたかったが、口にした所で殴られるだけだろうから黙って置いた。綴は運転席に乗り込む。エンジンをかけ、車が唸るような産声をあげた。

 ショウコも助手席に乗り込んでくる。彼女は綴の顔を見て、一瞬なにか口にしようとしたが、それを飲み込み、車の窓に肘を置いた。

 それを見て綴は内心で微笑むと、アクセルを踏み、街道へ出る。

 この前ソフィアが言った、「君は、あの子を連れてどこかで暮らせ」という言葉が、頭を過る。正直、それも悪くないように思えた。だが、そういかないことも分かっている。

 綴はいまだに章子を殺した世界が憎い。なんなら手始めに、いますぐにでも物倫とAT社に攻撃を始めたい。ただ時々、ショウコと一緒にいると、この感情の落としどころを得ることは出来るのか恐怖することもある。なんという矛盾した感情だろうか。

 そんなネガティブな思考を振り払う。

 例え、ショウコと決定的な決裂が起きる時が来ようと、それでも歩かなければならない。その方向が、前だろうと、後ろだろうと。

 ショウコが鼻を鳴らす。「今晩は家に帰る気分じゃないわ」

「いきなりどうしたんだ?」綴が訊いた。

「なに、私じゃ不満な訳?」窓ガラスに映るショウコの顔はいかにも機嫌が悪そうで、いまの思考を理解しているせいか、憂いも窺えた。「今晩くらいは付き合ってやるって言ってんの」

 綴が今晩眠れなさそうなのを察して言ったのだろうか。もしそうなら、なんというか、彼女にもよく気を使ってもらっているようで、申し訳ない気持ちで一杯だ。「ありがとう、ショウコ」

 ショウコのこと、虚構存在のこと、世界の変化のこと、そして橘章子のこと。

 この、複雑な感情を抱えたまま、彷徨い、もがこう。

 いまは、それでいいのだと思う。

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虚構喰らい 世一 @yoiti

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