9話
私は憎い。私から、物語を奪った全てが。
その独白で、橘章子の遺作は幕を開ける。
無題のそれは、単純な物語だ。ある一人の少女が戦争を体験して壮絶な目に遭う。拷問。強姦。記憶破壊。この世に存在するあらゆる責め苦を受け、ひとかけらの尊厳すら残されることなく奪われ死者となった少女は、世界の果てまで行進を始める。膨大な魂を引き連れて。
蹂躙。殺戮。破壊。孕む憎悪をまき散らしながら、なお自分の内側から湧き出る煮えたぎった憎悪に焦がされるも、行進をやめない。それは、もはや目的すら忘れてしまったからだ。
ただ、心臓の鼓動は止まっていたが感情はあった。生きたい。その感情を理解した時、少女はとうとう苛烈な死を遂げる。それでおしまい。断末魔と憎悪で始まり、断末魔と憎悪で終わる。
波に漂うような微睡みのなか、綴の全身の創生因子が情報を咀嚼している。彼女が残した物語。唯一現存する、彼女の娘を。綴は息を吐き、ショウコを閉じた。
章子が自宅に火を放ったあの日、その亡骸の傍で発見した物語こそが、ショウコだ。
いま思えば、それが彼女との最初の出会いだった。だが綴はそこから立ち去り、暗黒層へ潜ると、魂の一滴まで注ぎ込んで禁止物語を生み出し続けた。
とにかく世界が憎かった。章子を守らなかったAT社が憎い。章子を追い詰めた物倫が憎い。見殺しにした世界が憎い。結局、彼女を救えなかった自分が憎い。
落としどころの無い感情は時間が経つにつれ腐っていき、鼻の曲がりそうな憎悪は他人を呪い、自分自身すら呪った。
一年経たない内に、とうとう物倫に目をつけられた綴は、ツィーリエの部隊と戦う羽目になり、そして敗れた。
物倫の人間を大量に殺した。人を生かす物語は全く才能が無かったが、物語で創生因子に働きかけ人を殺すことには長けていたのだ。普通の人間には負けない。綴が敗北したのは、その時に初めて対峙した虚構存在――ショウコだった。
彼女に圧倒された時のことを、いまでも鮮明に覚えている。
超然とした佇まい。凛とした顔つき。そしてどこか悲しそうな眼差し。その瞳が、章子と似ていて、言葉は無かったが、彼女個人が綴をひどく責めているようだった。
殺してほしかった。狂気に憑りつかれた自分を、断罪して、なにより赦して欲しかった。
その後、失うものがなにも無い綴を、彼女が生き返らせた。
もしショウコとあの時出会わなかったら、いや、もし次離れることになると、綴は今度こそ物倫を怒りでひき潰し、AT社を憎悪で呑み込むだろう。
綴はずっと彼女を見守っているつもりだった。
実際、彼女は短気でよく暴走している。ただ、彼女は賢い。そして存外に自制する術も持ち合わせている。ならばなぜ暴走するのか。それは綴のためなのだ。
いまでずっとこの物語を、こんな近くに置いておきながら、目を逸らしていた。だから綴は気づかなかった。気付こうとしなかった。
彼女を咀嚼してようやく理解してきた。
ショウコの存在は生の肯定している。
私はここにいる。ここで生きている。
この言葉で、橘章子の遺作は幕が下りる。
なぜ気づかなかったのだろう。
なぜしっかり見てあげられなかったのだろう。
彼女は生きようとしている。
そう思うと、綴は自分が感じたもの全てに疑問が浮かんだ。
もし章子が本当に自ら命を絶とうとしたのなら、こんな物語を描けなかったはずだ。
章子は自殺などしていない。
彼女は生きたがっていた。
綴、もう動けるのではなくて?
ふと、なにも感じなかった全身に痺れが走り、五感が戻ってくる。上下、左右も思い出した。どこか柔らかな庭のような上で綴は倒れている。空間認識能力も回復して、自分の恰好がうつ伏せであることも分かった――目を覚ます。
起きた?
綴がいるのは広い一室であり、同時に庭園の中でもあった。
二つの景色が重なって見えるのだ。薄い膜で出来た二つの映像を透かして、同時に見ているような、なんとも不思議な光景だった。
両方とも見覚えがある。ここはケリィの仕事部屋であるのと同時に、焼けてなくなった橘章子の庭園だ。
視線の先にケリィが立っている。そして、彼に重なるように車椅子が置かれていた。
車椅子?
だが瞬きすると、車椅子は姿を消していた。景色もケリィの仕事部屋が鮮明で、庭園の景色など泡沫のように消えた。もしかすると本当に幻覚だったのかもしれない。
「俺をはめたな?」ケリィが苦悶の表情で言う。「どうやって情報を編めば、破壊する情報を生み出せる?」
「これは俺が組む情報の性質だ。俺の師だった橘章子は情報が生き物のように重なり変化したが、それとは真逆で、情報を断絶し分解した後、出鱈目に再構築する。不可逆的にだ」
といっても、こう上手くいくとは思わなかった。
綴は問う。「ケリィ、お前はリリアンを喰った。それに怒ったエドガーが、あんたを殺そうとした。違うか?」
「そうだ」
「理由を聞きたい。なぜ、お前は人間を喰らう」綴は続ける。「虚構人間は、生存のために人間を食べる必要はないはずだ」
「作家であり続けるためだ。俺の価値はそれだからだ」ケリィは苦々しく呻く。「なのに数年前、なにも書けなくなった。死ぬかと思った。だがそんな時、暗黒層に引きこもっていたら、天啓が降りてきた。人を食べろと。それ以降、物語の構想が湧き出るようになった」
「意識を、違う視点を取り込み、お前自身が束ねたんだな。新しい物語を書くために」
虚構存在は、常に情報と繋がっているため、バックボーン自体は膨大にあったのだろう。そこで、それまで扱えきれなかった情報を、人の意識を挟むことにより、チューニングして情報を編み上げた。つまり、人間を食らい官能記憶と、神経回路を自分のものにした。
だがそれは、自分の個性を完全に放棄することになる。
この男は、自分自身を手放すほどに追い込まれていた。スランプは相当な病だが、綴からすると、それほどまでに駆り立てる理由には少し弱いような気がした。ケリィの感情を理解することは出来そうにない。
綴は虚数空間及びケリィの電子領域に、自身の電子領域の根を下ろす。
「人殺しの俺に言えることはあまりない。ただ――」綴はショウコの顔を思い浮かべ、「お前はとっくに壊れていたんだ、ケリィ。もう、これで終わりにしよう」
綴が展開する情報の暴力に、虚数空間のあちこちで軋みが生じて、歪みが広がっていく。もうケリィは虫の息だ。綴たちの現実を上回り続けることも限界になってきている。
綴とケリィは、互いに虚数空間の支配権を奪おうとしているが、拮抗していた。つまり綴が随分と押している。
あとなにかもう一手。
「エドガー! いるんだろ、そこに!」ケリィは大声で怒鳴る。「このままでいいのか! お前はケリィ・エンハンスを殺すんだろ! こいつはまだここいるぞ! 生きている。お前は本当にそのまま逝くのか! まだやり残したことが あるだろぉぉぉぉ!」
綴の叫びが、波のように、虚数空間へ広がる。
すると祈りが届いたのか、大気が唸った。ケリィの腹部辺りに極小の点が生まれると、引力でもあるかのように空間が曲がり、ケリィに纏わりつき、呑み込み始めた。
やり残したことがあるだろ!
エドガーはその言葉が、とても懐かしく思えた。
毎日、彼女が――リリアンは、そうやって喝をいれてくれた。
そんなある日、突然、彼女は世界から消失した。
大慌てでAT社へ行き調べたが、そんな編集者はいないと出入り禁止になった。物倫に問い合わせても、同じような回答だった。挙句、メンタルヘルスケアを強制的に受診させられ、リリアンはエドガーが生み出した妄想と診断された。その後は薬物投与を受け、エドガーも彼女は自分が生み出した都合のいい虚構だったと思うようになっていた。
だがある日のこと、『ペインの雨』の修正をしようと、腰を据えたあの日だ。
自分の原稿に強烈な違和感を覚え、記憶の隅で随分と透けたなにかを必死に擦り続けた。そして、『ペインの雨』の編集者項目にリリアンの名前があることに気づいた。
彼女は確かに存在した。
狂っているのは、世界か、それとも自分か。
そんなもの、世界に決まっている。
もしリリアンになにか出来る奴がいるとすれば、ケリィ・エンハンスだ。あの男は半年ほど前からずっとリリアンに迫っていた。エドガーは最初、彼女の肉体を狙ってだろうと嫉妬したものだが、消えてしまったいま、それが大きな間違いだと理解した。やつはなにかおかしい。普通の人間ではない。猛る復讐の炎で脳漿が沸騰しそうになったが、冷静さを決して手放さなかった。
ケリィを殺す。エドガーがリリアンのことを覚え続ける限り、彼女は消えない。
ただ、あの男を普通に殺せるとは到底思えなかった。
リリアンは消されたのだ。世界から。どんなカラクリを使えばそんな所業を成せるのか、貧相なエドガーの想像力では解答が導き出せない。
それでも一つ言えることはあった。おそらくエドガーがケリィを殺しに行けば、リリアンと同じように消されるだろう。であれば、そこを逆手に取ろう。道ずれにするのだ。
自分の命はいい。自分と彼女の名前が入った、あの物語が残ればそれでいい。そのために、これからエドガーは殺すという名目で、ケリィに殺されに行く。
泥のように、汚く、粘つく、この感情をエドガーは決して忘れない。
赦さない。
歪みがケリィを食い散らかしていた。
全身がねじり切れ、肉が千切れ跳び、歪みから黒い液体が垂れてくる。
綴はその光景を困惑しながら見ていた。
ケリィだった肉塊は、床に倒れこむと、皮膚が沸騰しているかのように泡立ち始め、黒い液体を描いた。
ようやく綴の演算処理が上回り、虚数空間を掌握した。だがもしケリィが――あり得ないが――あの状態で生きているなら、手を打たなければ、また支配権を奪われる。
急ぎはしないが、警戒しながら、綴は泥で描かれた円の元まで寄っていった。円からは、黒い臭気でも立ち上っているかのように、情報が蒸発し始めている。世界に溶けているのだろう。
展開している電子領域越しに、微かな脈を感じた。だがケリィの呼吸とは、微かに違うように思えた。
「君がエドガーか」綴の胸は苦々しい思いで一杯になる。「やり過ぎだ。これじゃあ、俺たちが知っている世界へ帰れないじゃないか」
黒い水たまりは、意を示す手段がないのか、綴がそれを認識する方法を持ち合わせていないだけなのか分からないが、ただただ静かで、深い眠りに入る直前のようだった。
おそらく自己崩壊プログラムで自分諸共、滅ぼしたのだ。綴としては、電子演算を補助する程度で良かったのに、最後にプライドを見せてくれた。
こういう時、綴はなんと言葉をかけていいか分からない。困っていると、綴の元に一つのデータが送られてくる。
〈題名はペインの雨 〉
エドガー・レイラインの最後の作品だ。
綴はしゃがみ込み、極力感情を抑えた声でゆっくり話し始める。
「君の作品は物倫が預かった。持ち帰り次第、厳正かつ公平な審査の元、これが世界に配られるか判断する」綴は目を細め、「だが安心して欲しい。もし物倫が禁止物語に認定することがあれば、俺が責任をもって暗黒層へ流そう」
エドガーはそれを聞いて満足したのか、床に薄い円形の跡だけ残して蒸発した。
綴が息をゆっくり吐く。ケリィの部屋は随分と薄くなり、一帯は庭園へと姿を乗っ取っていく。庭園の景観が色濃くなり、そのまま世界を呑み込んだ。
庭園は激しく炎上していた。それと同時に、ショウコがあらかじめこちらへ送っていたメッセージが押し寄せてきた。通信も復活している。そうしない内に、綴は自分のリアルへ勝手に戻ることになるだろう。この炎に焼かれる前に戻れるか心配だが。
紅茶はいかが?
懐かしい気配を感じて、綴は立ち上がり振り返る。
庭園の中心付近に、車椅子が置かれていた。先ほど見た車椅子――そう彼女のものだ。
「章子、そんなに喰らい続けて、世界でも呑み干す気なのか?」
言葉は返ってこない。
ただ車椅子は、まるでうっとりとしているように、じっと綴を眺め続けた。
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