8話

「――綴」

 ショウコは噛みしめるように呟いた。

 まだ覚えている。希薄になりつつあるが、刻み込んでいる。まだ彼の顔も思い出せる。

 ショウコはエレベーターに乗り、セントラルタワーの最上階へ向かっていた。

 これから、あの男と会うためだ。

 扉がゆっくりと開いた。エレベーターホールに出ると、なんと綴が待ち構えていた。見間違えるはずがない。薄まりつつあった記憶に鮮明さが戻る。だからよく分かった。こいつは綴ではない。

「よくもその姿で、私の前に現れたわね」ショウコは床に唾を吐き捨てる。「早く、あんたの汚い本当のツラを見せてみなさいよ」

 実際に対峙して分かった。こいつは自分と同じ虚構存在だ。こちらの神経器官に干渉して、自分のことを綴だと認識させているのだ。

「この姿が一番君を動揺させられる」憎たらしいまでに再現された彼の微笑をケリィは浮かべる。おそらくこちらの記憶から引っ張ってきたのだろう。「あと、数分待ってくれないか? その後、ゆっくりと話をしよう」

「どうしてこの私が、あんたみたいな奴の話を聞かなきゃならないのよ」ショウコは睨みを強める。「どうせ、綴を消化して私ごと消そうとするのが目的なんでしょうけど、そうはいかないわ」

 エドガーは手で制する。「と口にしつつも、君はにのまえつづりの安否を心配しているようだ。であればもう君がこちらと対峙する理由はない――もう彼を消化し終えた」

「消化……し終えた?」

 視界が揺らぎ、眩暈を起こしそうになる。

 一瞬の空虚の後、それを埋め合わせようと、猛烈な怒りと憎悪が押し寄せてきた。

 この男をどうやって八つ裂きにしてやるか考え始めたが、ふと疑問が浮かび、思考が一気にクールダウンする。

 ショウコは問う。「あんた、消化し終えたと言ったけど、私はまだ存在しているわよ」

「中枢部分は残している」ケリィは卑しい視線をショウコに送る。「本当の目的は君だよ」

「つまり、あんたは消化した綴から、私を取り出して掌握しようとしている」ショウコは不意に笑みがこぼれた。「だから、あと数分待ってくれないかと言った。そうでしょ?」

 ケリィはなにか不満げに黙り込む。ショウコはそれを首肯として受け取る。

「あんたが間抜け具合に同情してしまったわ」ショウコは続ける。「悪いことは言わないわ、いますぐ綴を吐き出しなさい」

「なにを言うかと思えば」ケリィはショウコの警告を一蹴する。「もうじきに、君も消える」

「あんたはなにも分かっていない」ショウコもケリィの言葉を鼻で笑う。「本当に、あんたが取り込んでいるのは、私のマスタ?」

「……間違いない」ケリィの表情から余裕が消えていく。「一綴が持つ物語の中で、虚数空間を突き破れるものがあるとすれば、君だけだ」

 ケリィはそう口にしているが、ショウコにはわかる。ケリィはショウコのマスタを分解していない。まだ綴の暴かれていない領域に、ショウコのマスタはあるのだ。なぜなら、綴に関する情報は薄らいでいるが、ショウコの情報は確固としてこの世界で確立しているからだ。

「やっぱり、なにもわかっていないようね」

「なにがだ?」ケリィが首を傾げる。

「だから……」一拍置き、「私のマスタなんかより、綴の方が脅威だって言っているの」

 ケリィは一瞬、ピタリと静止した。訝しむというより、困惑している様子に近かった。

「意味のない時間稼ぎはやめろ。もう取り込みは終了する。じきに君も――っ」

 ケリィは話している最中、急に蹲る様に膝から崩れ落ちた。身体が打ち震えているようで、軽く痙攣を起こしている。

「ほら、言わんこっちゃない」ショウコは笑う。「吐き出せって警告はしたわよ」

「い、一体……なにが?」

「あんたの体内で毒が暴れ回っているんでしょう。情報を不可逆的に分解する、正真正銘の毒が」

「そんなのはおかしい!」ケリィはのた打ち回り、叫び続けている。「人間などが生み出した情報に、虚構存在が書き換えられるはずがないっ!」

「かつて……」ショウコがケリィに向ける眼差しは紛れもなく憐憫だった。「かつて、あんたと似た様なことをしようとした奴がいた」胸の内に深い苦みが広がる。ケリィはおおよそ察しがついたのか、それともショウコから読み取ったのかは分からないが、誰か分かったようだった。「そう――橘章子は過去に一綴を食べた。だけど、咀嚼すら失敗して、すぐに吐き出したらしいわ」

「なぜだ……」ケリィは自分を襲う理不尽な現象を呪っているようだった。

「欲が深かったわね、ケリィ。私のマスタなんか無視して、綴を殺しておくべきだったわね。まだそうなら、あんたはこんなに追い込まれることは無かったでしょうに」ショウコは続ける。「あいつは、私たち虚構存在なんて、内側から容易く食い破ってくるわよ」

 ショウコには確信があった。目を閉じれば、エドガーの苦渋の中から彼の脈が聞こえてきさえするようだった。

 間もなく浮上してくるだろう。ショウコは極力笑顔を見せないよう堪え、綴の帰りを悠然と待つことにした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る