7話

 なぜ人を喰わないんだ?

 過去に綴はショウコにそう聞いたことがある。

 彼女はこう答えた。「こと生存において、虚構存在わたしたちが人間を食べる理由が無いわ」

 食べられた人間はどうなるか聞いたが、ショウコもそれは答えてくれなかった。知らないのだろう。

 なぜそんなことを彼女に聞いたかと言うと、ツィーリエが虚構存在は人を食べると、楽しげに語っていたからだった。だからつい、訊いてしまった。いま思えば、綴たちがケリィについて話している時、あの上司は全て分かっていたのではと邪推してしまう。

 現に、綴はこうしてケリィに呑み込まれた。

 景色はツェントラールだが、これは全てケリィが生み出し――おそらくケリィはツェントラールしか世界を知らなかったのだろう、なんとも皮肉な話だ――綴に押し付け、上書きした現実だ。綴の全神経に干渉して組み上げた仮想世界とも言える。ゲームや電子領域との一番の違いは、いま体感している無人のツェントラールこそがリアルであり、綴が呑み込まれる前の世界へ戻る手段はない。つまり前の世界こそが、仮想世界となってしまった。

 一言でいうなら、ここはケリィ・エンハンスという虚構存在の腹の中だ。そして綴は現在進行形で消化されているのだろう。

 このような状況は初めてだが、対抗するにも情報兵器か、虚構存在に匹敵する演算機で、内部から腹を引き裂くしかない。だが綴はそんなもの持ち合わせていない。詰みに近い。

 いまごろ、ショウコが認識する世界からも綴のことは消えているかもしれない。

 彼女に存在そのものを忘れられているかもしれないと思うと、控えめに言っても相当に辛いものがある。だが、悲しみに暮れている場合ではない。暴れるだけ暴れてみよう。

 綴の予想では、ここにエドガーがいるはずだ。まず彼と合流して、なにか情報を得たい。

 周囲を注視していると、どこからか駆け足の音が聞こえてきた。

 綴は警戒しながら、足音の方向を見ると――そこには、息を切らしながら走ってくる青年の姿があった。黒い髪の青年で、目は透き通った青をしている。鼻は高い。アジア圏の人相ではなかった。

 一度だけ見たことがある。暗黒層でケリィの情報を覗いている時だ。間違いない、この青年はエドガー・レイラインだ。

 エドガーは近くまで来ると、膝に手を置き、呼吸を整える。「どこから来たんだ?」

「先ほど、やりとりしたにのまえだ」綴が言う。

「救助か!」エドガーは安堵の息を零す。「ありがたい。助かったよ」

 エドガーの眼差しが綴に突き刺さった。「いや、すまない。助けに来たつもりだったが、逆に出られなくなった」

「なぜそうなるんだよ!?」エドガーは重々しいため息を吐く。「せめて、いまなにが起きているかは教えてくれ」こころなしか怒りも混じっている。申し訳ないと思うが、仕方ない状況だ。

「あまり時間の余裕がないから三つだけ要点を伝えるぞ。一つ目は、この世界は俺たちが知っている現実世界ではない。二つ目は、ここから早く出ないと俺たちは、本当に死んでしまう。この場合の死は、生物的な意味での死ではなく、存在そのものが完全に失われる」

「よし、それだけ分かっていれば十分だ」エドガーの顔に生気が戻る。「出口のようなものがあるんだろ? いますぐそこへ向かおう」

「人の話は最後まで聞け。要点の三つ目は、俺たちではここから出るのはほぼ不可能だ」

「なんであんたはすぐ俺の希望を打ち砕くんだよ!」エドガーはいまにも泣き出しそうな顔で怒鳴ってくる。完全に八つ当たりだが、いままで一人でずっとこの世界を彷徨っていたと思うと、少しだけ同情した。

「死んだ気分になったなら、協力して欲しい」綴は一拍開けて続ける。「これから、この世界に風穴を開ける」

 エドガーは複雑そうな表情で綴をじっと見ていた。半分が困惑、もう半分が期待といった感じだ。

「なにかいい案があるようだけど?」

「エドガー、君は作家だな。しかも人を殺せるだけの苛烈な物語を作れる」

 エドガーはしばらく黙っていたが、意を決したのかゆっくり話し始める。「そうさ。俺は封印指定を受ける物語を組み上げた。そして、それでケリィを殺した」

 やはりそうだったか。エドガーと連絡がついた際、物倫より先に書き起こしていた都市警察隊から連想されるのは、治安維持か、事件捜査。それも殺人などの。

「理由はなんだ?」綴が一番気になっていることだった。「リリアンという編集者がなにか関係しているんじゃないか?」

「リリアン?」エドガーは頭を強く押さえている。「思い出せない。ここ来てから、思考が溶けていくんだ。殺したことは覚えているけど、なぜだったか思い出せない」

「まあいい。ここから出たら思い出せるだろう」苦しんでいるエドガーを見て続ける。「それにケリィは死んでいない。というより、君がケリィに殺されかかっている」

「そんな馬鹿な!」エドガーの顔は蒼白になっている。「俺は確かに殺したんだぞ。俺の物語で、確実に!」

「虚構存在って聞いたことあるか?」

 エドガーは頷いた。「実際に見たことはないけど、物語から生まれた意識、存在とか聞いたことある」エドガーは綴が口にすることを察したのか、青白い顔色が土気色に変わっていく、「ケリィが、その虚構存在なのか?」

「おそらく、その頃にはもう呑み込まれていたのだろうな」綴は頷く。「虚構存在には、人間でいう死の概念がない。いるか、いないかだ」

「なんだよ、畜生!」地面を蹴った。

 それを見て、生きていることを悔しがるほど彼はケリィを殺したがっている。その動機が、綴は気になった。

「まずは、中枢部分ソースへ向かう。そこで俺と君の物語を流して、ケリィという存在を構成する要素の多くを破壊しなければならない。強力なウイルスを書き込んでな」

「よく分からないが、ケリィは生きていて、俺たちの物語で徹底的に倒すってことだな」

「よし、じゃあ向かおう」綴はそう促した。

 だがエドガーは一つ気になっていることがあるらしい。「俺は情報を破壊できる物語を作れると思うが、物倫のあんたに出来るのか?」

 綴は苦笑いする。「元作家だ。封印指定を受けた、ただの作家さ」足早に走り出した。


 綴という男とようやく合流出来た。

 やっと救助が到着したかと思えば、そんなことはなかった。

 この男の名前はどこかで聞き覚えがあったが、いつどこで知ったのか思い出せない。少し考えたが、激しい頭痛に負けて思い起こすのをあきらめた。

 エドガーの脳内は酷い耳鳴りに支配されていた。金属が引きずられる、あの音だ。

 念のために綴に聞いたが、そんなものは聞こえないと言っていた。

 綴曰く、エドガーは随分と破壊されているらしい。このままでは完全に壊れるとのこと。それが本当だと、自分でも実感していた。

 とにかく一秒でも早くこの場所から脱出しなければ、手遅れになる。エドガーは過去に作った物語を引っ張って来ながら、見直しをしている。

 早く中枢へ到着して、物語で内側から情報を破壊するしかない。

 だったら、盛大に破壊してやろうじゃないか。

 ケリィを殺した動機も、どうしてこんな世界にいる理由も、考えるのが億劫になってきた。だがそれはもういい。どうでもいいのだ。

 ようやく綴と合流できたのだから。


 雨が降ってきた。もしかしたら、ケリィも予兆を感じているのかもしれない。

 綴たちは各々のとっておきを持ち合わせた。強力なウイルスが仕込まれた物語を。

 第二交差点の中央。綴たちは、いますぐにでも物語を流せる状況になっていた。

「あんたはなにを持ってきたんだ?」エドガーが訊いてくる。

「俺のとっておきの物語だ」綴は目を細める。「俺の大切な人に関する、大事な物語だ」

 エドガーは神妙そうな顔つきをしていた。

 これから、本来は存在しない領域――一旦、虚数空間と名付けた――に各々が持つ最も最凶の物語を放流する。どうなるか見当がつかない。上手く行けばいいのだが。

 だが、ここに引きずり込まれてすぐの絶望感はもう無かった。彼女がついている。

 綴たちは、ともに虚数空間へ情報を流した。

 物語たちは、最初水槽に落ちた墨汁のように、黒く、薄く、揺蕩い、希薄になりつつ、拡散していく。さらに、高所から落下したかのように、空間に張り付き、根のように侵食して、脈打ち始める。

 物語が根を張るように虚数空間全域へ広がっていくと、世界が生命活動を停止したかのように、雨の落下が止まり、立体ディスプレイは静止して、あんなにも電子音で満ちていた空間に、沈黙がしっとりと絶対的な重量でのしかかってくる。

 重力が徐々に失われてきた。ツェントラールの街並みに亀裂が入り、まるで空に吸い寄せられるように、街が崩壊して、瓦礫が空へ昇っていく。

 気が付けば、逆さまの街が空に、空が街に――世界がひっくり返っていた。綴とエドガーは上空に放り出されていて、空に舞う羽のように、ゆっくり、揺蕩うように、空へと落ちていく。

 上手く行ったのか?

 綴は半信半疑のまま、エドガーの姿を探す。

「あぁ、上手くいったさ」

 彼はすぐ傍にいた。どこか満足げにしている。だが彼の姿にどこか違和感を覚えた。

 空中でもがくようにしている綴とは違い、よく安定した体勢をしている。

「エドガー?」

「君が持つ物語の中で、もしこの世界を破れるとすれば、彼女の無題の遺作くらいだと思った」エドガーの声は弾んでいる。「君のおかげで、じきに橘章子の遺産が手に入る」

 気が付けば、綴たちが放った物語の侵食は収まっていた。いや、綴の物語にエドガーの物語が絡みつき、侵食し、抑圧している。綴が放った物語が、一気に呑み込まれている。

「お前、まさかケリィか?」

 綴は反射的にHWで電子領域を広げ、大部分のリソースを演算処理へ回した。が、数秒もしない間に、HWからエラーコードの洪水が襲ってくる。焼石に水というか、粉砕機に投げ込んだ木材のように、凄まじい速度で破壊されていく。自己修復プログラムが追い付かない。

 意識が混濁としてくる。「エドガーはどうした?」捻りだすように綴は訊いた。

 エドガーは腹をさする仕草を見せる。「ごちそうさまでした」

「お前……」

 膨大なエラーコードで視界が塗りつぶされる。ケリィに電子領域をほぼ掌握され、意識を保っていられない。じきに視床、皮質系も押さえられるだろう。

 視界に夜が降りてくると、綴は成す術無く力尽きた。

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